前回の『心を紡いで言葉にすれば』で、確かに私は宣言しました。
『はいのサイさん、ふたたび』を書き終わった時に近づけたような気がした〝とても大事だけど、それが何かまだよくわからなくて、形にならない何か〟について考えてみる、と。そしてそれはおそらく、集団の有効性にもつながるものなのだ、と。
あの日の講義後、学生に集団の有効性を問われ、うまく答えられなかったという後悔が残ったのは、私の中に、人が他者を求める際の利己的なもの以外の理由を、咄嗟に見つけることができなかったから。
一人で過ごす時間を何より尊いものだと思う私が積極的に他者を求めるのは、前回示したように、好きなボードゲームで遊びたい時や、いろんな料理を一度に少しずつ食べたい時や、保身のために他者を隠れ蓑にする時ですが、実はそれよりもっと重要な時があります。
それは、自分という存在を確認する時、です。
奇しくも当ホテルのオーナー雨梟殿も仰っておられたように、人は、人に面することで初めて自分が人であるということを知ります。
つまり〝他者の他者〟としてのみ、〝わたし〟は、存在する。
この『他者の他者』という概念については、イギリスの精神科医 R.D.レイン氏の名著『自己と他者』(1978年 みすず書房)や、哲学者 鷲田清一氏の名著『じぶん・この不思議な存在』(1996年 講談社現代新書)に詳しく記されているので詳細は省きますが、ものすごく雑に言うと、自分というものがとても空虚な存在であるために、私たちは、誰かの他者になることで自分というアイデンティティを構築していく、というものです。
誰かの記憶の中に自分がいるからこそ、私たちは、自分の歩みや事実を信じることができる。
誰かの心に住む自分がいることを実感できるからこそ、私たちは、この世に自分が存在すると信じることができる。
だから、認知症になった家族と対面していると、私たちは怖くなる。
一緒に経験してきた過去が失われ、その過去によって私自身が作り上げられたという記憶が共有されないから。
家族が「そんなこと、あったっけ? 忘れちゃった」と言う時、それがずっと覚えているほどでもない他愛もない過去だったり、あまりに大昔の出来事であれば「そっか。アハハ」と笑って流すこともできる。でも、成長の中で絶対に忘れられない強烈な過去だったり、何度も取り出してみては大切に慈しみ、育んできた過去なら?
写真や動画で記録になっているものなら、忘れられた悲しみだけで済むかもしれない。(それだけでも辛いけど)
でも、そういうふうに答え合わせのできない過去の場合、取り残された私たちは、自分の記憶を疑い、その記憶で作られた自分が壊れるような感覚に陥ったりするのではないでしょうか。
そういえば昔、ある人に「誰かの心の中に自分を置かないほうがいい」というようなことを言われたことがありました。
当時の私は、他者から好意を得るには〝頭がいい〟とか〝好みの顔〟とか〝優しい〟とか〝おもしろい〟とか〝従順である〟のような〝条件〟が必要だと思っていました。人は、相手の中に自分が求める条件が備わっている時にのみ好意を与えるのだと。
だから、もしそうした〝見返り〟を返せないのであれば、人から好意を持ってもらうことはないと思い込んでいたのです。でも、そんな見返りを一つも返さなくても、ただ私が私であるというだけで、好意というか愛を抱いてくれる他者が、この世にたった一人だけいることも知っていました。その人の中でだけ、私は生きている。
ゆえに、その人がいなくなったら私もなくなると本気で思っていました。無条件で私という存在を認め、受け入れてくれる他者がなくなったら、自分が消えてしまうのだと。
おそらく、その〝ある人〟は、そんな私の危うさを感じて、忠告してくれたのかもしれません。
あの時の忠告がなければ、その数年後、たったひとりのその他者が余命宣告を受けた際、おそらく私は、壊れてしまっていたでしょう。ありがとう。
また、他者の存在は、そうした自分に対する〝信念〟だけでなく、アイデンティティそのものにも影響を与えます。
誰かとのつながりの中で自分を定義することができるからこそ、私たちは、自分という形を作ることができる。
そのような、つながりの中で自分を捉える枠組みのことを、社会心理学では『相互協調的自己観』と言います。日本人は欧米人に比べ、この傾向が強いとされています。一方、欧米人は、他者とどう関わろうが、唯一無二の自分というものを強く持っており、その自分は状況によって移ろうようなものではない強固なものだと考えられています。これを先の言葉に比して『相互独立的自己観』と言います。
欧米の言語とは異なり、日本語の〝私〟という一人称にあまりにたくさんのバリエーションがあるのも、そうした〝関係性の中で自分を定義する〟というような、状況依存的に揺らぐ自己観を持っていることの証左と言えるのでしょう。
互いの関係性の中で自分を捉える究極の状況は〝ママ友〟の世界です。
ママ友の中では、ママ同士がママ自身の名前で呼び合うことは稀で、多くの場合〝太郎ちゃんママ〟とか〝花子ちゃんママ〟というように、〝子どもの名前 + ママ〟で呼ぶのが普通です。ママ友の間では、太郎の母であるという関係性から捉えられた私以外の、一人の個人としての私は、(少なくとも表面上は)存在しない。名もなきただのママでしかない。太郎がなくなれば同時に消えてなくなる私。そしてそのことに違和感を持つ人も少ない。いや、もしかしたら違和感を覚えてはいても「私のことはちゃんと名前で呼んで!」とか言いにくいのかもしれません。そしてこういう呼び名が通用するのは日本くらいなのかもしれないな、と思ったりするのです。少なくとも、私が見ているアメリカのドラマでは、ママ同士がそう呼び合うのを聞いたことがありません。
〝太郎のママである私〟は、太郎という他者(息子)がいて初めて成立する。同様に〝〇〇会社の課長である私〟というのも、〇〇会社という他者の集合体が存在して初めて成立する。
だから、退職して肩書がなくなったり、ママを卒業してしまうと、途端に自分がなくなる虚無感に襲われるのかもしれません。
今回は〝他者と群れることの価値〟つまり〝集団の有効性〟について考えているわけですが、これまで挙げてきた事柄は、いずれも〝他者を求めること〟にまつわるものであり、〝他者を求めること〟と〝他者と群れること〟は、同義ではありません。
〝三人寄れば文殊の知恵〟のように、群れるというのが三人以上からと考えるなら、全く論点がずれた話なのですが、〝あなたとわたしがいれば集団〟と考えるなら(実際、心理学では、集団は二人からと定義されています)、〝他者を求めること = 集団を欲すること〟と考えても、そう間違ってはいないでしょう。
つまり〝他者の他者〟になり、自分という存在を成り立たたせるために私たちは誰かと群れているわけで、互いにそうし合っているので一見するとわかりにくいけれど、結果的には、やはり利己的な目的で群れているだけに過ぎないのかもしれないと思ったりもするのです。
でもね。
その一方で、ただ一緒にいることで心が満たされたり、相手に喜びを与えたり、幸福を感じる瞬間というのは、確かにあるのかもしれないとも思うんです。
そんな当たり前なのかもしれないことに最初に気づかせてくれたのは、前回の『心を紡いで言葉にすれば』でも触れた、2007年のアメリカ映画、ショーン・ペン監督作品『イントゥ・ザ・ワイルド』でした。
この作品を観た頃の私は、他者との繋がりを断って孤高の暮らしを求める人間を扱った映画(注)ばかりを意図せず立て続けに観ていました。仕事でもプライベートでも辛いことばかりで、たぶん、この映画の主人公たちのように、私も全てを捨てて、ここではないどこかへ消えてしまいたかったのかもしれません。意識化されてはいなかったけれど、そういうテーマの作品を無自覚に選んでいたのでしょう。
だから、私に心理学の本当の面白さを教え、この世界へと導いてくれた恩師が、この作品を観るよう強く勧めてくれた時、〝また世捨て人映画か。流行りなの?〟なんて思ったりしたのです。流行りものを忌避する性格を抱え、これ以上こういうのを観たらまずいなと警戒しつつ、それでもそれを観たのは、映画鑑賞において全幅の信頼を置いていた恩師の言葉だったから。そんなに言うなら見てみようと思ったのです。極めて社会心理学的だ、というその作品を。
恩師は言いました。「特に最後の言葉だよ。最後の言葉だからね」と。
この作品は、ある実話を元に、アメリカのノンフィクション作家のジョン・クラカワーさんが著した同名の本から一部を抜粋して、ショーン・ペンさんが映画化したものです。
光り輝く未来もお金も人間関係も過去も全てを捨てて、一人荒野へと向かう主人公がいろんな人と出会い、つながりながらも、そこから離れて遂に辿り着いたアラスカのままならぬ荒野で、命を落とすまでを描いています。
〝他者の他者〟であることを拒み、求めた地にやって来て、ふとした事故から衰弱した主人公が、持って歩いてボロボロになった本の行間に弱々しい力で書き記した言葉が、今回の『心を紡いで言葉にすれば』のタイトルにもなっている、Happiness only real when shared.です。
幸せは、それを誰かと分け合った時だけ本当になる。
その言葉をスクリーンで観た時、私は涙が止まらなくなり、場内が明るくなっても席から立ち上がることができないくらい、泣きました。
一緒に観ていた友人が引くくらいに。そんな自分に自分が引くくらいに。
人が何に幸せを感じるのかは、それこそ十人十色で、自分が幸せに思うものが相手も同じように感じるかはわからない。もしかしたら、幸せの押し売りなのかもしれない。そもそも幸せに感じるものは、別に誰かと分け合わなくても幸せを感じるものかもしれない。
でもたぶん、ひょっとしたらその幸せには共感できなくても、何かに幸せを感じている他者を見ることで幸せになれることがあるのだろう。
そして、そういうふうに思ってくれる他者がいるということが、その幸せをより強くする。
『はいのサイさん ふたたび』では、ひょんなことから結婚以来初めて生活を共にするサイさん夫婦が、その生活の中でいろんなことを分け合いながら過ごしました。一緒に住んではいなくても、それまでも彼らは繋がっていたと思います。
実際にそこにある時間と空間と物質をリアルに共有し合う日々は、確かにストレスをもたらすかもしれない。そんな日常が続くと、つい、大事なことを忘れてしまいそうにもなるでしょう。事実、私自身も学生に問われたあの日、咄嗟に思い出せなかったくらいですし。
でも、そうしてリアルに共有し合う日々が、ストレスだけでなく、サイさん夫婦により大きな幸せをもたらしたのだとも思うのです。だからこそ、妻サイが自分の家に帰ると言った時、サイさんはちょっぴり切なくなったのかもしれません。
人が他者を求めるのは、幸せを本当にするため。
群れるのは、その分かち合った幸せをより強固にするため。
今度学生に問われたら、そう答えたいと思います。
前回の『心を紡いで言葉にすれば』で実施したアンケートにお答えいただいた方、ありがとうございました。皆さんのお言葉が本当に励みになります。
次回からはまた違うお話を綴っていきたいと思います。いろんな〝潮時〟が交差するお話です。
(注)2008年のEU フィルムデーズで公開された、クリスティヨナス・ヴィルジューナス監督作品『森の生活(旧題:あなたは私)』(2006年リトアニア・ドイツ映画)や、2008年のイタリア映画祭で公開された、エルマンノ・オルミ監督作品『ポー川のひかり(旧題:百本の釘)』(2007年イタリア映画)です。いずれも何故か原題から大きく変更されて公開されたりDVD化されたりしています。個人的にはいずれも旧題のほうが好きです。
(追記)『森の生活』のDVDジャケットにも〝幸福とは、幸福の夢を見続けること。そして、それを分かち合える相手がいること〟と記されていました。
(by 大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『心を紡いで言葉にすれば』第17話、いかがでしたでしょう。
無条件・絶対的な愛と肯定への信頼が前提としてあると、一見「利他」に見えるが「利己」混じり、というものに厳しくなるのでしょうか。そんな信頼を持っていないからか、私は、人が利己心から「人と一緒にボードゲームしたりして楽しみをシェアしたい」と感じる時点で、もう「利己」「利他」が混ざり合って分離不可能なエリアがあると感じます。「利己」「利他」の切り分けが、「一方が必ず死ぬならどちらを選ぶ?」みたいな、結局本質から遠ざかるだけの究極の選択ゲームに見えることもあります。でも、そんなふうに雑に放り出さず、高い精度で追求するのが学問なのでしょう。
利己心や功名心からだとしても、人は他者のために多大な時間を費やすし、命を捨てる人だっている。人として生きるそんな奇妙さを、峰歩さんにはますます追求してほしい! 次回は新しい小説がはじまります。どうぞお楽しみに。
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