心を紡いで言葉にすれば 第3回:三人寄れば文殊の知恵になりたい

会議が好きではありません。

私の知る会議なるものは、ある目的をもって集められた場であり、情報共有の場であり、配布された資料をただ読み合わせる場であり、一見話し合いをしている素振りをしながら、誰かが用意した結論に向かって、予定調和で台詞みたいな対話を積み上げるものでした。

まるで「このように決まったことを、今、あなたも確かに合意しましたよね」という強制承諾を得るためだけに存在するかのような。

時に、「今日は建設的な意見を求めます。一人最低一回は発言するように」とノルマを課されたりもするけれど(それはそれで嫌だけど)、概ね、本当に大切なことは会議の場では明らかにされないし、資料の矛盾を指摘したら嫌な顔をされたりするし、アドリブで対話に参加すると集中砲火を浴びたりする。〝話し合い〟の時間は有意義なこともあるけれど、〝会議〟と名がつくと、途端に意義を失っていくのは何故だろう。

8080号室で綴られている『内言、漏れてるから』の小説コンテンツ『誰かのために』の第二話の中でも、主人公の住む町の議会がうまく機能していないことが描かれていました。でもそれは、なにもあの町の議会が特別なわけではなく、皆さんの住む町でもあるかもしれませんし、上述のように、〝会議〟と名のつく場所では普通に起こり得る現象なのではないでしょうか。いわゆる『三人寄れば文殊の知恵』にはならないのです。

考えてみれば、このことわざ的なものって、説明不足と言うか、いろいろ足りない。
三人寄って初めて文殊の知恵に到達するのか、それともそれを超えるのか?
二人でもなく、五人でもなく、なぜ三人なのか?
ていうか、そもそも文殊って何よ、てなもんで。

文殊は言うまでもなく文殊菩薩のことで、仏の階級において如来に次ぐ階層に位置する偉い存在です。同じく賢さの象徴だけど、その賢さで人々を救済することに重きを置く普賢菩薩と双璧を成す、学業向上や合格祈願を一手に引き受ける智慧の神様。

で、このことわざは〝人間が三人集まってやっと文殊菩薩に近づける〟という意味ではなく、〝人は一人じゃ偏る、二人じゃ揉める、三人いて初めて冷静な結論を得ることができる〟的な意味なのだそうです。だから、どうしても三人は必要なのだと。

ううむ……。三人って意外と厄介だと思うのです。

ことわざの意味として想定されているように、三人目が冷静に他二人の見解をジャッジできればいいのだけど、案外そうならない。二人のうちのより力が強い方へ、あるいは、より好意を抱いている方へなびくから。

AでもBでもないCを出すための第三者が必要なのだとしたら、それは三人を超えて四人とか五人とかでもいいのでしょうか。ネット情報によると、先の〝会議〟において、最適な人数とは七人だそうです。なんで、七?

……いけない! 答えのない底なし沼に、沈んでしまいそうです。

いずれにせよ、人が増えたら増えるだけ、話し合いがまとまりにくくなるのも、これまた事実。

いろんな人がいたら、それまで持たない視点を持てる(かもしれない)という強みは確かにあるけれど、人は自分に合意してくれる人を好む生き物だから、新たな視点を持つことによって自らの立場を危うくしたり、自論を手放さなきゃいけなくなったりすると、途端にその視点を放棄します。そもそも、ここ島国日本では、同質性の高い人間が多く、人が増えても新たな視点が増えない場合も多々あります。同じでもダメ。違ってもダメ。果たして本当に、人が集まって意見を交わすことには意味があるのでしょうか。

話し合いによって愚かで浅はかな決定を下してしまうことを、心理学では『集団思考(集団的浅慮)』と言います。これには、いくつかの要因があります。

まず、集団としてのまとまりの良さ。結束力の強さは集団思考をもたらします。

また、その集団が、かなり同質性が高かったり、他から隔絶されているところにいたり、みんなを取り纏めるリーダー的な人がいなかったり、しなければならないことやしちゃだめなこと、誰が何をどこまですれば認めてもらえるのかの規準や基準が曖昧だったりして、集団構造的に問題がある場合も、集団思考を強める要因になります。

さらに、集団を取り巻く外側の世界からの突き上げが強い中で、失敗してしまったり、もはや人の道に外れるしか方法がないと思えてしまうような万策尽きた状況も、集団思考を加速させる要因になります。

仲良し集団は確かに居心地がいいけれど、人は、その居心地の良さから出たくなくなって、何も考えず楽観的になって、迫り来る危機があったとしても軽視する。まとまるための結束力は、得てして同じであることから生まれるものなので、違うことは嫌われる。だから人は、みんなとは違うことを言ったりしたりすることを控えて、実際にそうする人を締め出そうとしたり、居心地を壊す可能性があるものを全て自分たちから遠ざけようとする。

結果的に、多数派(と思われる)意見だけが正義で、少数派や自分たちの外側にある〝よその世界〟の考えを間違っていると思い込む。
自分たちが最強で、最善で、最適だと信じ、突き進もうとする。それがいかに愚かで、不合理で、非道徳的だとしても。

私たちはそろそろ気づいたほうがいい。
どれだけ人が集まって束になっても文殊菩薩の智慧にはならないということを。

話し合いは二人までに留め、それ以上集まる必要があったり、どうしても下さなければならないことがあり、その期限があるのであれば、思い切ってここはひとつ、AIに任せてしまってはどうだろうか。

AIの下す結論がどこまで信用できるものなのか、私たちはそれをどこまで受け入れられるだろうか、という疑問は残るけれども、人が集まって合意のもとに下された愚かな決断よりはましなのかもしれない。少なくとも、「その決断は間違っていた」という引き返す勇気を持ちやすくなるのではないでしょうか。

(by 大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

『心を紡いで言葉にすれば』第3回「三人寄れば文殊の知恵になりたい」 いかがでしたでしょうか。

文殊菩薩って、実は3コアの超高性能CPUを持つAIみたいなお方なのではないでしょうか。AIをもっと賢くする方法として、「別々の進化をしてきた複数のAIに同等の重みをつけて相談して決めてもらう」というのもあり得る気がして、その場合いくつが最適かと考えると、やっぱり3とか5とか7とかを思い付きます。「7くらいがいいんじゃない?」「いや、一見そう思えるけど、3なんだよ」という予言があの諺なのかも……なんてわけはない。脱線しすぎましたが今回も考えがいのあるテーマでした。次回もどうぞお楽しみに!

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