当8080号室『内言、漏れてるから』の説明書きに「毛と山と鉄を愛する」と記している通り、私は、毛が好きです。
といっても別に、眉毛に一本潜む長い毛を愛でたいわけでも、けむくじゃらフェチでも、毛虫愛好家というわけでもありません。
〝ふわふわした毛を紡ぐこと〟が、好きなのです。
いや。もっと言うと〝紡いだ毛糸を織る〟のが好きなのです。さらには、織った布を鞄や服に仕立てるという作業も好きです。
〝編み物男子〟という言葉もあるくらい、近年、編み物が老若男女問わずブームになっているようですね。
編み物はいい。さながら写経や読経のように、無になる感じがいい。
私は編むことも好きですが、織る作業を覚えてからは、圧倒的に、織るほうに軍配が上がっています。
というのも、糸の太さや作業する人の能力にも因るところは確かに大きいのですが、基本的に、編むよりも織るほうが、進みが俄然早いからです(注)。小さなループの間に編み棒を差し込み、糸を出し入れしている間に、シャトル(緯糸を通すための舟型の杼)を縦糸の上にザーッと走らせれば、あっという間に一目どころか一段が織れてしまう。それをただ繰り返すだけで、瞬く間に数メートルの布が完成するのです。
せっかちな私としては、これほど好ましい理由はありません。
ただ織るだけなら、市販の糸にもいろんなものがあるし、わざわざ自分で紡がなくてもできるのですが、手紡ぎのブツブツとした見た目が、織られた時のモコモコした手触りが、そして何より、織りあげた布の軽さと暖かさが、私を手紡ぎに向かわせるのです。
もちろん、誰かが手紡ぎしてくれた糸もありますが、概して手紡ぎ糸は買うと高い! そういうお財布の事情的な面もあります。
…………いや、違うな。私は手紡ぎをするのが、とにかく好きなのです。
手のひらの中で綿のように雲のようにふわふわで何物でもなかった塊が、送り出すタイミングとほんの僅かな力の匙加減と足踏みのリズムで、ゴムのように伸びたり縮んだりする線になり、一本の糸になっていく。その作業が、その光景が、何より好きなのです。
簡単にできない技術だからこそ、できた自分が嬉しいのです。
手紡ぎは一般的に羊毛、つまり羊の毛で行うことが多いのですが、いざ手紡ぎをし出すと、いろんなもので紡げるのではないか、と試したい気持ちが芽生えてきます。
実際、毛であれば(それを紡ぎたいかどうかはさておき)人毛でもなんでも紡げるらしいのですが、「アルパカ」はモコモコした見た目に反し、長毛でヌメッとしていて滑る上に撚りが掛かりにくく紡ぎにくいし、「カシミヤ(カシミヤヤギ)」は高すぎて買えないし、カシミヤほどの柔らかさと軽さがあって、かつリーズナブルな「ヤク」は毛足が短く、慣れるまではプツプツと切れ気味で紡ぎにくく、たとえ紡げても、私の技術力では極細の糸になりがちという特徴があり、結局は元の木阿弥の羊に戻ってきました。(もし今、愛兎ブブが生きていたら、ブブの毛でも紡いだでしょうに……。きっと、宇宙一の糸ができたと思います)
羊にもいろいろ種類があり、「メリノ」とか「モヘヤ」などの有名どころ以外にも、「サフォーク」とか「ロムニー」とか「ハードウィック」とか「シェットランド」など、毛質による分類でも概ね30種類くらいあるようです(出典:『SPINNUTS・できるシリーズ5 本出ますみの羊毛の手引き』)。先に挙げたメリノは柔らかい種の代表だし、モヘヤは光沢のある種の代表です。私が好んでよく紡ぐ「サフォーク」は弾力のある種、「シェットランド」はメリノ同様、柔らかい種に分類されます。
けれどもこの分類も、個体差の前には容易に覆ることもあります。
人間だって剛毛の人も猫っ毛の人もいるように、羊にだって弾力系なのに軟毛とか、柔らかい系なのに剛毛もあるからです。
知れば知る程、わからなくなる。紡げば紡ぐほどもっと知りたくなる。
さながらそれは、沼。そう。羊の沼に沈み込んでしまったのです。
そしてその沼は、単に羊の毛の性質に止まらず、羊そのものの存在やモチーフをも超え、その文字にまで広がっていきました。
いつしか町の中で「羊」という文字を見るだけで、過剰反応するようになりました。時にはジンギスカンのお店にまで!
そして出会ってしまったのです。彼ら『羊文学』に。
文学と言うと、文字通り〝文学〟をイメージしてしまうかもしれませんが、彼らは三人組の音楽ユニット。つまりバンドです。
2021年のフジロックフェスティバルのYouTube配信で出会って以来、私は彼らの音楽にどっぷりはまってしまいました。
彼らの名曲は枚挙に暇がないのですが、中でも『永遠のブルー』という曲は、私の中の、遥か昔に通り過ぎた青い春の記憶を呼び起こします。もちろん、私の青い春の頃は、この曲はこの世にまだ存在しなかったので、あくまでも曲に紐づいた記憶などではなく、当時の自分があのメロディに、あの歌詞に重なるというような感じなのですが……。
ところで、この曲のタイトルにもなっている、ブルー。
ブルー。BLUE。青。
〝青〟と聞いて、皆さんは何を連想しますか?
海、空、信号、寝台列車……。
青からイメージするものはいろいろあるけれど、私のように〝気恥ずかしくて居心地の悪い、でもなんだか尊いあの時代(つまりは青春)〟に思いを馳せた方は、どれくらいいらっしゃるのでしょうか。
実はこの曲、ある携帯会社の〝青春割〟という新料金プランのCMソングとして使われていたので、もしかしてこの曲を聴いて私が無条件に「青春」を連想したのは、ある種のプライミングというか、刷り込みのようなものなのかもしれません。
永遠のブルー。
もしこのブルーが青春なのだとしたら、人は、そんなにも青春を永遠にしたいのでしょうか。
確かに私はブルーから青春を連想し、自身の青い春をなんとなく思い出したりしたけれど、実のところ、自分の青春はそんないいものではなかったし、永遠に続いてほしいなどとは全く思わないし、ましてや戻りたいなんてこれっぽっちも思いません。
思えば青春と永遠ってなんとなく親和性が高いというか、ちょっとググっただけでも、青春の枕詞のように永遠が付いていたりする。それは曲だったり映画だったり彫刻作品だったり。かのロダン先生の作品名にもあると知り、驚きました。
そっか……。そうなんだなあ。
心理学の世界では、青春とは、人生のいわゆる思春期と呼ばれる期間であり、この期間に、人は自らのアイデンティティ、つまり、私が私らしく生きていけるための、私なりの特徴を確立させると考えられています。
先週まで連載していたお話の、二つ目の〝潮時〟の主人公である夏恋ちゃんは、まさにその時期に差し掛かったところだと考えられます。
かっぱえびせんを食べながら、彼女が、私らしさを確立していたかどうかはさておき、この考えを世に知らしめたのはエリクソンという発達心理学者ですが、彼によると、発達とは、子どもが大人になることだけを指すのではなく、大人になってからも続くもの。つまりは、生まれてから死ぬまで人は発達し続ける、のだそうです。
そして、それぞれのライフステージ(人生の節目)で、成し遂げなくてはならない課題があり、思春期という〝子どもが大人になる〟節目においては、その先の人生においてなくてはならない〝私らしさ〟という一つの指標を手にすることが課題だとされています。その〝私らしさ〟を元に、人は、生業を選び、伴侶を選び、継承者を育てる。
エリクソンのこの考えは、多様性に富んだ現代社会においては、些か古臭く、ステレオタイプ的な家族観や人生観に基づいているとも考えられます。現代のように多様で、自由で、長寿であると、人生のどの段階で人がそれを手にするのかも、かなり個々の特異性に委ねられているでしょうし、もし仮に思春期に〝私らしさ〟だと思って手にしたものがあっても、それはただの幻影であり、もしかしたら死ぬまで手にすることのできない(あるいは手にする必要のない)ものなのかもしれない、ということに気づいたりするかもしれない。
これが好きとか嫌いとか、何をしている時が楽しくて、夢中になれるか。それくらいなら、見つけられるかもしれない。
でもその何かが、子どもの頃からそうで、今もそうで、大人になっても、きっと死ぬまでそうだろうと思える何か、連続していて一貫している何かであるかなんて、そんなに簡単に見つけられるものなのかなあ、と思うのです。よしんば「これだ」と見つけたとしても、その確信は、揺らいだりしないのかなあ、と。だって人は、変わるし、揺れるもの。
エリクソンの言葉によると、私が〝私らしさの獲得〟と表現しているものは〝アイデンティティの確立〟というもので、その実態は〝自己を社会の中に位置づける問いかけに対して、肯定的かつ確信的に答えることができるもの〟となっている。では、その問いかけとは具体的にどういうものかというと、「自分は何者か」「目指す道は何か」「人生の目的は?」「存在意義はなんだ?」というようなものらしい。
ヒエーッ!
こんなの、生まれて半世紀過ぎた私でも答えられないよう……。
エリクソンが生きた時代と今とでは、いろんなものが全く異なっているから、いろいろ違うこともあるけれど、エリクソンの生きた時代でもやはり、これらの問いに答えること、つまりアイデンティティを確立することは、容易なことではないと考えられてきた。
だからこそ、大人になる猶予期間としての〝心理モラトリアム〟という概念が導き出されたのだろう。
今みたいに不確実性の高い社会で流動的に生きざるを得ない私たちにとって、たぶん、〝私らしさ〟なんていうものは、これだと決めても、ぬるぬるとその手からこぼれ落ちていくような捉えどころのないもので、だからこそ、それを〝子どもでもなく大人でもない〟頃に見つけなければならないというのは、エリクソンの時代以上に、超絶難しい課題だと思えるのです。
いつまで経っても見つけられない。そんな実態や不安を前に、人は期限の延長を求めるのでしょう。
だから青春は永遠に続いてほしい。青春という沼からなかなか抜け出すことができない。沈み込むと意外と心地よい、その沼から。
ブルーよ、永遠に。
当面私は、青春の沼ではなく羊の沼に沼ろうと思います。日本武道館、楽しみです。おっと!そのすぐ後に、スピニングパーティもあった💗
次からは、また別の〝潮時〟が描かれます。今度はいわゆる〝沼〟つまり趣味の話です。お楽しみいただけると幸いです。
(注)とはいえ実際は、経糸の整形とか、綜絖や筬に糸を通す作業など〝織りだす前の準備〟において、圧倒的に時間を要するので、本当のところは、織りが編みよりも早いかどうかは怪しいところです。
(by 大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『心を紡いで言葉にすれば』第19回、いかがでしたでしょう。エリクソンによれば、人は自分の目指す道や存在意義を思春期に見出し、それはおおむね生涯変わらないと? 現代社会でそこそこ年を経た私にとっては、「そんなわけないだろ」ですが、若い時にはそうした考え方を受け入れて、だからこそ思い悩んでいた気もするし、していなかった気もするし。
今はむしろ、若き日に確立した価値観を疑わず、ひっくり返されもしない人や人生を、「つまらん」と感じますがみなさまはどうでしょう? 峰歩さんにとってもはや「羊」(創作者たる羊文学)が「青い春」(被創作物たる永遠のブルー)の上位概念になっているところが実に示唆的、と感じた今回のエッセイでした。次回は『潮時』の新エピソードです。どうぞお楽しみに。
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