【第十五話】
翌日、指定された日時に、小田原泉が役場へ出向くと、最初に来た時に案内された町長室へ通された。部屋に入ると、竹林町長、梅木浩子の他に、山本善子の夫と、眼鏡の男、胸にバッジをつけた男が一人、既にソファに座っていた。
「お忙しい中、ありがとうございます。いつもすみません」
梅木浩子が立ち上がって小田原泉を迎え入れた。
「いえ。今日は、なんか大勢なんですね」
「ああ、そうなんです。すみません」
申し訳なさそうに会釈しながら梅木浩子が告げると、そこにいた数名が軽く頭を下げた。
「初めましての方もいらっしゃるようですね。小田原です」
「初めまして」
初対面の二人が、揃って会釈した。
眼鏡のほうが総務課係長の鈴木光太郎、胸バッジはこの企画のプロジェクトリーダーを務める二期目の町議会議員の春山伸一だった。
簡単な自己紹介を済ませた後、梅木が切り出した。
「実は三日ほど前、ボヤ騒ぎがありまして。例の林檎畑のある山林なんですが」
「えっ、あのご夫婦の? ご無事だったのでしょうか?」
「ご主人のほうが、やけどで」
「えっ!」
「命には別状ないらしいのだけど、ちょっと大怪我になってしまって。全治2か月くらいかかるそうです」
「そうなんですか……。ともかく命が助かってよかったです。でも、全治2か月ですか……。それは大変ですね。奥さんはお怪我もなく?」
「奥さんは無事です」
「よかった……。林檎のほうは?」
「それも、ご主人が必死で守ってくださったので、大丈夫でした」
「それはよかった。……でも、なぜ火事に?」
「それがですね……。警察の話では、放火らしいんです」
「ええっ……。そうなんだ……」
梅木浩子の話だと、小田原泉と話した後、町長たちと協議し、業者に土地は譲らない、著名な建築家への発注も断念する、規模を縮小して建て替えではなくリノベーションに留める、資金の不足分はふるさと納税やクラウドファンディングなども活用し、広く寄付を募るということになり、早速、議会でそのことを諮るために準備をしているところだった、というのだ。
「業者には、譲渡しない旨は伝えたんですか?」
「はい。それは話しました。ご提案頂いた内容は、そもそも寄付ではなく、見返りに土地の利用を要求されるのなら、それは受け取ることができない。ましてや町の所有地を競売もかけずにある特定の業者に売ることもできない、と」
「相手の反応は?」
「納得されていたとは思いますが……」
「……うん。そうですか。それは、放火のあった日より前?」
「そうです」
「うーん。そうか……」
小田原泉の心に広がる疑いの靄を見透かしているかのように、梅木浩子が言った。
「先生も思いますか? 彼らが火をつけたのではないかと」
「うーん。まさかとは思いますが……。だって、土地が手に入らなかったからって火をつけるなんて。その理由がわからないです。あの土地にこだわる理由が例の林檎なのだとしたら、燃えちゃったら困りますしね」
「そうなんですよね……。でももし、自分たちの手に入らないくらいならなくなってしまえ、というような考えだったら? そういう人、いますよね、時々」
「まあ……」
「それにね、実は……。奥さんが、見たというのです」
「もしかして、犯人とか、ですか?」
「いえ。犯人かどうかはわかりません。火をつけた瞬間を見たわけでもない。ただ、炎が上がる中、現場を去っていく一台の車を見た、と。前にお話ししたように、あの辺りは周囲は山林で何もありません。ご夫婦以外他に人も住んでいない。走り屋たちが腕自慢するような山道でもなく、そこに繋がる抜け道でもない。林檎畑のあるご夫婦の家の辺りで行き止まりなんですよ。火事が発生したのは夜更けなんですが、その時分にそんなところに来る車なんて、普通はいないんです。だからあれは、火をつけた犯人が乗った車なのではないか、と」
「そのこと、警察は?」
「もちろん、知ってます。奥さんが、車種とかも伝えてるようです」
「それなら、すぐ捕まるんじゃないですか?」
「そう願ってます」
「……その話をするために、今日、私は呼ばれたのでしょうか?」
「それもですが……実は昨日、こんなものが議員宛に届いたんです」
差出人も宛名も書かれていない、茶色の封筒を開けると、そこには一枚の紙が入っていて、中に、放火事件の概略が記され、桜の宮町の松野町長の関与を疑う内容が記されていた。
「これが、議員の皆さんに?」
「それがどうやら、一部の町民にも届いてるみたいなんですよね」
「えっ!」
「先生のところは?」
「届いてません。昨日ですよね?」
「あー、じゃあやっぱり無作為的なんですかね。議員には全員に届いたのですが、町民のほうは届いたり届いてなかったりするみたいなんです」
「でもこれって……。事実なんですか?」
「わかりません。ただ、奥さんが見た車というのが……」
梅木浩子は一度そこで口をつぐみ、意を決したように続けた。
「例の、産廃業者のトラックだったというのです」
「へえ……。でも、どうしてそこのトラックだと?」
「車体に書いてあったそうです。業者の名前。あと最近はよく来てたみたいなんで、奥さん覚えてたんですね、色とか形とか」
「なるほど……。でも、その内容を知ってる人、限られますよね?」
「そうなんです。おそらく関係者だけですね」
「知ってるのは、このメンバーだけですか?」
「いいえ。まだ他にも数名、プロジェクトに携わっている人間がいます。職員の中にも議員の中にも」
「そうですか。となると、その人たちを含めた中にこの差出人がいるんですね」
「……おそらく」
梅木浩子は深いため息を吐いた。その息は重く澱んだ空気の層になって、ここにいる小田原泉以外の人々の頭上にずしりとのしかかる。疑心と潔白の、黒と白の渦が竜巻みたいにこの場に襲い掛かる。その空気を一掃したのは、意外にも竹林寛だった。
「まあでもね。今更ここで犯人捜しをしても仕方ないよ。起こってしまったことを、なかったことにできないし。それが誰かわかったところで、どうしようもないじゃない?」
行政の長たるものが、自分たちのところで守られるべきものが流出したことに対して、何の検証もせず、対策も取らず、「どうしようもない」だけで済まそうとする。
以前、梅木が言っていたように、この町の行政を取り扱う人たちのコンプライアンス意識はかなり低い。これまでは、それでもどうにかなっていたのだろう。何かトラブルが起こっても、特に具体的な対策を取ることなく「これから気をつけようね」で済んでいたのかもしれない。
でも今回は……。そんな小田原泉の心を掬い取るよう、梅木浩子が毅然と応えた。
「でも町長。もしこの怪文書のことが松野さんの耳に入ったら、名誉棄損で訴えられることもあるわけで……」
「ああそうか。でもなあ……、奥さんに車、見られちゃったんでしょ? 業者と松野さんが親戚なのも事実だし、ね」
「だからと言って犯人と決まったわけではないので、これはまずいです。町の行政の危機管理の問題です」
「まあそうだね、確かに。僕も、松野さんが関与してるとは思いたくないんだけどね。昔からよく知ってる人だし。そんな人じゃないんだよ」
「ともかく、町として何らかの対応はした方がいいと思います。議員のところだけなら、何とか緘口令を敷くこともできるかもしれませんが、一部とはいえ町民のところに届いたわけですから。そちらについては、町としての見解を公的に伝えるなりした方がいいと思います。あと、情報漏洩については、もっと厳しく対応する必要があると思います。そこで、この町でもコンプライアンス委員会を発足し、そこに外部の人間を委員として招聘するのはどうかと思いまして。小田原先生には、是非外部委員になって頂きたいのです。これまでも、公私ともにいろいろとご助言を頂いてましたが、今後は、正式に町政に関わってもらえないかと思います」
小田原泉は、一瞬、目の前が真っ暗になった。
(しまった……。この町では、何の肩書もない一高齢者として暮らすつもりだったのに。そのための移住でもあるのに。こうなることは予想できただろうし、だからこそ、最初に予防線を張って〝個人的な助言〟に留めようと試みたはずだ。あと少しで定年を迎え、コミュニティのことなど考えずに、好きなことだけを自分のためだけにする贅沢で我儘な時間で、日々を満たせると思っていたのに……。やはり最初に突っぱねるべきだった。妙な好奇心や関わってしまったことに対する執着など全部捨てて……)
猛烈な後悔と、自己嫌悪と、失望に襲われながら、小田原泉は、そこにいる人々の視線が一斉に自分に注がれているのを感じ、たまらない気持ちになった。
「……先生、すみません。事前におうかがいもせず、急にこのような依頼をしまして。さぞお困りのことだと思います。最初に先生は、お仕事との兼ね合いもあるので町政に関わるのは難しいと仰っておられたのですが、私のほうで無理を言って、個人的にアドバイスを頂くだけということで、ご協力頂いておりました。結局、こんなことになってしまって、心苦しい限りです。でも、是非お願いしたいんです。どうか、お引き受け願えませんか?」
小田原泉は観念して頷いた。乗り掛かった舟から降りることはできなかった。
【第十六話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
不穏な予感はしていたものの、思った以上の大ごとに。そしてうっすら危惧した通り、「個人的なアドバイス」で済まず町政に関わることになりそうな小田原泉。情報漏洩に流言庇護に放火という一大事にこの役に立たない町長では、梅木浩子、そして小田原泉の肩に重たい石がどどーんとのしかかってきそうです。続きをどうぞお楽しみに。
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