心を紡いで言葉にすれば 第9回:めんくいのこころ

突然ですが、皆さんは〝めんくい〟ですか?

と言っても、イラストのように麺を食うほうじゃなくて、面を食うのほうです。
最近では〝ルッキズム〟という言葉もあるくらいですし、表立って「自分、面食いです!」とは、なかなか声を大にして言いづらいかもしれません。
というか、もしかしたら〝面食い〟という言葉自体、今や死語なのかもしれません。実際、あんまり聞かないし。

ちと古い出典で恐縮ですが、マニアに人気の『三省堂 新明解国語辞典 第四版』によると、面食いとは〝結婚や仕事の相手として顔のきれいな人ばかりを選ぼうとする性質。器量好み〟と定義されています。

ほほう。
面食いは、恋愛絡みに限定されるわけではないようです。

仕事の相手として誰かを選ぶとき、私なら間違いなく、顔の良し悪しではなく、仕事の出来不出来を考慮すると思うのですが、面食いの人々は、そうではないのでしょうか?

人が人を好きになる理由は十人十色だから、中には顔のきれいさが至上の条件になる場合もあるわけで、とりわけ刺激を求める恋愛においてはそういうことも、まああるだろうなあ……と、想像はできるのです。けれども、仕事の相手となると、途端に?マークが漏れ出します。

幸いなことに、心理学の数ある知見の中には、この私の疑問に一つの答えを与えてくれるものがあるのです。

社会心理学が提唱する概念・定義の中に、『セルフ・モニタリング』というものがあります。
なかなか日本語の良い訳がないので、カタカナのままか、セルフの部分だけを訳して『自己モニタリング』と表記されています。
〝自分自身をモニターする〟って、どういうことなのでしょうか。

例えば、こんな状況を想像してください。

仲良し三人組で、他の二人が大笑いする芸人のネタを自分は面白いと思えない時。
親しい人が誕生日プレゼントをくれたが、好みのものではなかった時。
会議の場で質問したいが、みんな早く会議を終わらせようとしている時。
親しい人の葬儀に参列中、涙が全く出てこない時。

皆さんなら、どうしますか?

モニターという言葉には、〝観察〟という意味と、〝制御〟という意味と、〝統制〟という意味が含まれているそうです。
つまり『セルフ・モニタリング』とは、我が身の置かれている状況を含めて自分自分を客観的に〝観察〟し、その場の雰囲気に合わせて自分の気持ちや思いを〝制御〟し、自分自身をあるべき場所へ導こうと〝統制〟する行為であり、他者との関係の中で他者に自分のことを示すとき、状況や相手の状態などを考慮して、示し方を抑えたりコントロールする程度のことです。
そして、その程度が強いとか弱いとかによって、その人の性格的な特徴を示すことができると考えられています。それらの強弱を測定するための心理尺度も開発されています。

セルフ・モニタリングが高い人とは、この〝観察・制御・統制〟の程度が強い人のことで、例えば上の4つの状況では、面白くなくても笑ってみせ、好みのものじゃなくても大喜びしてみせ、聞きたいことがあってもその場では聞かず、涙が出なくても悲しそうな表情を作ってみせます。

4つの場面に共通するのは、いわゆる〝空気を読む〟という行為です。
セルフ・モニタリングの高い人は、この〝空気を読む〟という行為がとても得意なのです。
しかも、ただ読むだけではなく、読んだ上で、その空気を変えないように自分の行動をコントロールすることができる。たとえそれが、本音の部分では自分の意に反していたとしても。

セルフ・モニタリングが高い人には、対人場面において、いくつか特徴的な行動があることが明らかになっています。
そのうちの一つが、〝面食い〟なのです。ここで、そのことを明らかにした実験をひとつ紹介します(注)。

この実験に参加した男子学生たちは「人が親しくなる過程に関する研究」と称して集められ、事前にセルフ・モニタリングの強弱を測定され、強い人と弱い人が選ばれます。そしてこの後、初対面の相手とペアを組んで大学近くの喫茶店で会話してもらう、と告げられます。

ペアを組む相手は、事前に実験者によって選出された二人の女子学生(実際は実験協力者。仕掛け人)のうちのどちらかで、男子学生は、そのうちのどちらか一人を選ぶよう言われます。ただし選ぶ際、直接女子学生に会うことはできず、代わりに、彼女たちの情報を提示されます。

二名の女子学生の情報は、一人ずつファイルに入っており、各々1ページ目には、女子学生自身が回答した、好きな食べ物やよく読む新聞、よくする活動など、いわゆる〝その人ならではの情報(人となり)〟が記載されています。2ページ目には、様々な心理検査の結果、いわゆる〝心理学的所見からみたその人の性格特徴〟が記載されています。そして、3ページ目には、女子学生の写真が掲載されています。

実験者は、男子学生がそれら二冊のファイルを見て、ペアを組む女子学生を選ぶ過程を別室から密かに観察し、どのページの情報をより長く見ていたのかを測定します。その上で、彼らに誰を選ぶのかについて尋ね、その選択に、セルフ・モニタリングの高低による違いがあるのかを調べました。

すると、セルフ・モニタリングの低い男子学生は1ページ目(人となり)を見ている時間が長く、その内容が情報としての価値も高いと答えたのに対し、セルフ・モニタリングの高い男子学生は3ページ目(写真)を見ている時間が長く、その内容が情報としての価値も高いと答えました。

その次の実験では、それらのファイルに掲載する女子学生の情報をあらかじめ操作しました。二人のうちの一人は、容姿は魅力的だが、とても人見知りで、親しい人としか関わらず、どちらかというと一人でいるほうが好きで、気分が変わりやすい女性であることを記し、もう一人のほうは、容姿はあまり魅力的ではないが、サバサバして社交的で、人付き合いが良く、聞き上手で、ユーモアのセンスもあり、情緒も安定している女性であることを記しました。
そして先の実験同様、セルフ・モニタリングの高低で、実験の相手としてペアを組む女子学生の選出に違いがあるかを調べました。

すると、セルフ・モニタリングの低い男子学生は性格で選ぶのに対し、セルフ・モニタリングの高い男子学生は、性格ではなく、見た目の良い女性を選びがちであることが示されました。

これらのことから、〝セルフ・モニタリングの高い人は、面食いである〟というのが、定説となったのです。

ではなぜ、セルフ・モニタリングの高い学生は、友人や恋人の相手を選ぶわけではなく、ただ実験でペアを組むだけ(要は、ある任務を共にするだけ)の相手に対しても、見た目の良さを重視する選択をしたのでしょうか。このことについては、次のように説明されています。

セルフ・モニタリングの高い人は、空気を読もうとするあまり、自分が人からどう見られているか、自分の行動がその場の状況的に適切であるかを常に意識しています。
今回の実験では、大学の施設ではなく、大学近くの喫茶店で行うと告げられていました。
セルフ・モニタリングの高い人は、喫茶店で、自分が女子学生と話している様子を、第三者が目撃した時のことを想像したのでしょう。そして、実験のことを知らない人は、まさか実験を喫茶店でやっているなどとは思わないので、単に二人がデートをしていると思うだろうと考えたのでしょう。
自分と何らかの繋がりがあると想像される人によって自分が評価されるのだとしたら、セルフ・モニタリングの高い人は、人からの見栄えを意識して外見の良い人を選ぶ、というのです。
きっとそれは、ブランド品を身につけたり、恋人や結婚相手の肩書や学歴や社会的地位を気にする心理と同じようなものなのでしょう。

でもこのような傾向は、なにも、セルフ・モニタリングの高い人に限って見られる現象でもないのかもしれません。

皆さんは、一緒に歩く人の服装や、食事を共にする人の食べ方などが気になって、さりげなくアドバイスをしたり、少し距離を置いたりしたことはありませんか?

どうしてそんなことをしてしまうのでしょうか。
それは、私たちが、他者から自分がどう思われるかを懸念し、他者が自分に対して抱く印象を操作しようとしているからです。

一緒に歩いたり食事をしているからと言って、必ずしも個人的な繋がりがあるわけではない。今回一回限りかもしれないし、仕事上、表面的に関わっているだけかもしれない。
けれど、ただ一緒にいるというだけで、第三者からは、その人が自分と何らかの関係のある人だと思われます。その関係がどのようなものであるか、第三者にはわからないからです。
例えば、〝仕事ができる〟とか〝カッコ良い〟というような、自分がそう思われたいと望む印象を他者に与えようとする時、自分の努力の結果や振舞いなど自分から発するものではなく、連れ立って歩く人の服装や仕草など、偶々隣にいた人の発するものによって、その印象が意図せぬ方向に進んでしまうとするならば、できるだけ一緒にいる相手を選びたいと思うのは、当たり前のことなのかもしれません。

本来、自分の隣にいる人が何を着て何をどう食べようと自由です。
けれども、その人のその振舞いによって、自分が意に沿わぬ印象を他者に抱かれてしまうとしたら、それはたまったものではありません。
自分のしたことが自分の印象を決めてしまうことには納得できても、自分と一緒にいただけの他者がしたことによって、自分の印象を決められてしまうことには納得できないのです。だから、越権行為とわかっていながらも、私たちは、傍にいる他者の服装や食べ方に意見をする。

人間は社会的な生き物です。
社会の中で生きる以上、その群れの中で居場所を作らなければなりません。
そのために私たちは、日々の暮らしの中で、他者から好かれたり、褒められたり、それによって何らかの利益を得ようと思い、自分に関する情報を他者に伝えようとします。
こうした、他者に自らが望む印象を与えるため、自分のことを他者に示す行為を『自己呈示(セルフ・プレゼンテーション))』と言います。

ここ8080号室で私が綴る、もう一つの文章『誰かのために』の第十九話や二十話でも、隣町の町長、松野一が自らのイメージ戦略のために、主人公たちと駆け引きをするシーンが描かれていますが、人は、自己呈示をすることによって、自分に対して他者が持つ印象を日々コントロールしようと試みているのです。

印象を良くするために、時には敢えて本音を吐露するというテクニックもありますが、概して人は、本音と建て前を使い分け、望ましく、好まれる自分を演出しようとします。そのためには、自分の本心は脇に置いて、今、その場で自分に求められているのは何かを考え、必要な行動を取ろうとするのでしょう。もちろんそれには、個人差もある。その傾向の強い人が、セルフ・モニタリングの高い人なのです。

つまり、〝面食い〟とは、〝自分に対して他者が抱く印象を操作したい〟と願う心の表れから発するものなのかもしれません。

とはいえ、面食いの中にはこうした自己呈示の動機によるものだけではなく、〝単に美しいものを見ていたいだけ〟というような、極めて感覚的な心地良さを求める動機によるものもあるでしょう。いわゆる、〝好み〟というものです。

人が〝めんをくう〟理由はいろいろ。でも、理由がどうあれ、人をしてきれいなものを求めしむものなのですね。
ま、何をきれいとするかは、それこそ人によって、大いに異なりますけれども。

(注)Snyder, M., Berscheid, E., & Glick, P. (1985) Focusing on the exterior and interior: Two investigations of the initiation of personal relationships. Journal of Personality and Social Psychology, 48, 1427-1439.

(by 大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

ちょっと久しぶりのエッセイ回で「空気を読む人は面食い」という驚くべき説が!
「空気を読む人ほど一般的に好まれる容姿の人を好む」というのは納得できますが、「空気を読む人ほど内面よりも外見を重視する」というのは意外です。空気を読める人同士求め合うのかと思ってました。

ところでこの実験、容姿や性格の良し悪しの基準は人それぞれなはずですから、よほど極端に写真を加工したり性格の美点や欠点を大げさに書いたんでしょうか。セルフ・モニタリングの低い学生がペアの相手を性格で選ぶ際、必ずしも「気さくで社交的で聞き上手」を良しとするとは限らず、「人見知りで一人好きで気まぐれ」の方が気楽でいいってことにはならんのか、というのが特に気になります。みなさん、性格で選ぶならどっちの人がいいですか? そして、こんな私は空気読めてるんでしょうか……。

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