『だるま落とし』をご存知ですか?
細長い円柱を輪切りにスライスしたような木片が3~5個くらい積み重なり、その一番上に、だるまが乗っている。
一番下の木片から順に、木槌で側面を打ってそれを横に飛ばし、上に乗っている木片やだるまを倒さず落とさず、最後までだるまが残っているかを競う遊びです。
って、言葉にするとうまく言えねえ!
……失礼。思わず、頭の中に北島康介さんが出てきてしまいました。
(彼の名言は「何も言えねえ」でしたが……)
百聞は一見に如かず。
こういうやつ ↓ です。
あの遊び、皆さんは得意でしたか?
私は、ものすごく不得意でした。
どれだけ狙いすまして、ターゲットの木片(積み木)部分だけを限りなく地面と平行に叩いたつもりでも、いつもなぜか少し(大いに)ずれて、あらぬところをあらぬ角度で叩いてしまい、結果、ガラガラと総崩れ、だるまは無念にも転げ落ちてしまうのです。
カコーンと小気味良い音を鳴らして打ち抜くことができれば、さぞかし気持ち良かろうに。
稀に打ち抜けることもありました。が、続けざまに成功させることはなく。
だるまはいつも、最後はごろんと床に転げ落ちる。
転がるだるまを見ながら「そもそも何でこんな遊びしてるんだ?」と思います。
もっと魅惑的な『キキララの月のおうち』とか、勘違いした兄が誕生日に買ってくれた『ミミちゃんスーパーマーケット』とかがあるのに。
……ミミちゃん?
そう思った方も(もしかしたら)いらっしゃるかもしれませんので、補足します。
それは、当時流行ってた、裏に開いた穴から陳列棚に直接品出し補充できたり、陳列棚の前に回転式のベルトコンベアーが付いてて、そこにお買物カゴを置けば、リカちゃんが持たなくてもカゴが自動で(実際は手でローラーを回すので手動)レジまで進んでいく『リカちゃんスーパーマーケット』の〝バッタもん〟です。
私の持ってる『ミミちゃんスーパーマーケット』は、陳列棚の後ろは空いてなくて銀紙が張られてるだけで、ベルトコンベアーも付いてなくて、ミミちゃんならぬリカちゃんが(いや、私が)カゴを持たなければレジには行けない代物です。
当時同じく小学生の兄に、「これが欲しかったんやろ?」と言われて、「違うわ」と言えなかったあの玩具。
兄がお小遣いを貯めて買ってくれたのを知っているから、憧れの『リカちゃんスーパーマーケット』は、小学生のお小遣いで買えるような代物ではなかったのを知っているから、〝バッタもん〟の『ミミちゃんスーパーマーケット』でさえ、当時の兄にとっては清水の舞台から飛び下りるくらい奮発したことを知っているから、何も言えなかった。
ローラー回してベルトコンベアー動かしたかったけど。後ろから商品補充したかったけど。
そんなちょっと切ない想いこそあれ、少なくともだるま落としよりは、断然面白いだろう。
だって、私は無類の人形遊び好きなのだから。
何かになりきって没入して、独り言全開で遊ぶことが、私の至上の喜びなのだから。
それなのに、なんでこんな、いつまで経っても達成欲求を満たせない、フラストレーションしか感じない遊びをしなきゃならんのか。
お正月だからだ。
お正月は、退屈でした。
友達とは遊べないし、いつも見ているアニメは放送していないし、お店も開いてないし、親もいる。
(私は鍵っ子だったので、普段は日中、家に誰もおらず、自由を満喫していました)
いつもいない親がいて一緒に遊んでくれること自体は、物珍しくもあり、嬉しいし、楽しい。
確かにそうも思っていました。お正月の特有の〝ハレ〟な感じが、心躍らせたのも事実です。
でも、普段〝ケ〟のときには、誰もいないのをいいことに、見たいだけテレビを見たり、サボりたいだけピアノの練習をサボり、食べたいだけお菓子や味付け海苔を食べたりできたのに、その自由を奪われることを、苦々しくも思っていました。
○○し放題ができないのなら、せめて、いつもみたいに、リカちゃんとかキキララで一人遊びしたい。
でも、家族みんながこたつに入って団らんしてる中、一人自室で、独り言全開で、一人遊びをするのはどうよ。
リカちゃんやキキララはいつも待っててくれるのだから、お正月くらい、違う遊びをしたほうが楽しいかもしれないよ。
当時の私はそんなふうに、自分に言い聞かせていたように思います。
そして「みんなで何かしなきゃ」というその思いが、私に、たいして面白くないけど、普段しないし、やれば盛り上がるし、大人も子供も楽しめる〝正月遊び〟を選択させるのでした。
いろはかるた、福笑い、双六、トランプ、そして、だるま落とし。
思えば、だるまもかわいそうです。
自分の立つ土台をカンカン叩かれ打ち抜かれ、少しずつ地盤沈下していくのを、抗うことなくただ黙して坐り続ける。
場合によっては、足元が崩れ落ちてズドーンと床に落とされることもあるし、下手すると、自分の横っ面を思いっきり叩かれることさえある。
何度も床に転がりながら、「もうやめてくれよ」と思う日がなかったか……。
涙が出ちゃいます。
そして、大人になった今、『だるま落とし』を見る度に連想するものがあります。
『欲求のピラミッド』と呼ばれる、ある心理学者が今から80年ほど前に提唱した、欲求に関する理論です。
8080号室で綴っている小説『刺繍』では、娘のわたしが母の私との間で生じた様々な葛藤を振り返りながら、この先、どうやって介護をすれば二人にとって最善なのか悩んでいます。
主人公の「わたし」が吐露したように、子どもは親に褒められたい。
いや。〝誰かに褒められたい〟と思うのは、なにも子どもに限った話ではありません。
それは、人間の根源的な欲求なのだと思うのです。
昨今では、SNSがその欲求をかなり満たしてくれます。どんな人でも、気軽に自分を示し、〝いいね〟を貰うことができる。
SNSが爆発的に広がったのも、私たちの中に、自分以外の誰かに、自分自身に、〝自分を認めてもらいたい〟という思いがあるからなのかもしれません。
それは承認欲求と呼ばれるもので、強い弱いこそあれ、どんな人の心の中にも、割と根源的に存在するものです。
認められたい。
だけでなく、できれば愛されたい。
ゆえに、仲間が欲しい。
その中で、自分を好きでいたい。
そして、なりたい自分になりたい。
人には、寝たり食べたり飲んだり気持ちよくなったりしたい!などの、生得的に備わっている欲求以外に、こうした、人間関係の中で満たされたい様々な欲求もあります。
大晦日にお寺では、百八つの鐘を撞いて煩悩を消していくけれど、どんな煩悩から消していくんだろう? その順番って決まっているのだろうか。
おそらく人によって、何を重要とするのかは異なるのだろう。あるいは、同じ人でも欲求充足の困難度のような状況や、その欲求の渇望度によっても、優先順位は変わるかもしれない。
でもおそらく、いかなる人でもいかなる状況でも、大筋のところで欲求が満たされる順番はあるのではなかろうか。
心理学では、こうした人間の欲求の充足順序に関して、ある有名な説があります。
『欲求階層説』というものです。
この説によると、人間の欲求は、ピラミッドのように積み重なっており、より根源的あるいは本能的なものから順に満たされ、それが礎になり、たとえ部分的であってもそれらが満たされて初めて、その上に積み重なるように、より後天的、社会的なものが満たされていくのだそうです。
欲求が積み重なる様子をピラミッドの石積みに例えたこの説は、別名『欲求のピラミッド』とも呼ばれています。私が『だるま落とし』から連想するものです。
この説では、最下層にある欲求は、生命の維持に直結する〝生理的欲求〟で、
次に積み上がるものが、危険なものから身を守ろうとするなどの、安定と安全にかかわる〝安全欲求〟、
その次に積み上がるものが、他者と繋がったりその中で愛し愛され、居場所を作ろうとする〝所属・愛情欲求〟、
そしてその次に積み上がるのが、誰かに、あるいは自分自身に、自分を認めてもらいたいと思う〝自尊・承認欲求〟とされています。
三つめと四つめは、社会生活の中で生きることを余儀なくされる私たち人間が、経験によって獲得するもので、〝社会的欲求〟とも呼ばれるものです。
そして、『欲求階層説』では、これら四層の欲求が積み上がったピラミッドの頂点に、なりたい自分になりたいという〝自己実現欲求〟が生じるとされています。
自己実現欲求は、下層の欲求がたとえ部分的であっても満たされない限り、発生しないものなのです。
つまり、だるま落としで言うところの「だるま=自己実現欲求」なのです。
積み木がないと、だるまは置かれません。それと同じなのです。
私たちは、「よい人間になりたい」と思ったり、「大谷翔平さんみたいになりたい」と思ったり、「人の心を掴む曲を弾く人になりたい」と思ったり、「誰かにそっと寄り添うような文章を書く人になりたい」と思ったり、「オリンピックの金メダリストになりたい」と思ったり、「セレブになりたい」と思い、そのために、今なすべきことを考え、努力する。
それらはいずれも、〝なりたい自分になりたい〟という自己実現欲求を満たそうとする行為です。
私たちが夢を抱き、その夢を目指して努力し、歩を進めるとき、自己実現欲求以外の、その下にある生理的欲求や安全欲求、所属・愛情欲求、自尊・承認欲求は(部分的でも)既に満たされている、ということなのです。
そうした下層の欲求たちが積み重なって初めて、人は、なりたい自分を求めることができる。
逆に言えば、それら下層の欲求が満たされないと、なりたい自分になろうとする欲求は生じてこない、ということなのでしょう。
もちろん、どんな時でも、夢を見るこころを奪うことはできません。
食べたいものをちゃんと食べられなくても、爆弾が雨あられのように降ってくる中でも、自分の居場所がなくても、自分のことを愛せなくても、人は夢を見ることができる。
でも、夢を見ることと、夢の実現のために実際に動くことは違います。
ああなりたい、こうなりたいと思っていても、今日食べる物がなく、いつ銃口を向けられるかわからない中では、その夢の実現のために動くことよりも、食べ物を探したり、銃口から身を守る術を身につけることが優先されるのは当然です。
私たちが、夢の実現のために何かをするとき、既に私たちは何かを満たしている。
積み木がなければだるま落としにならないように。
ピラミッドの土台となるものを軽視することは、できないのです。
縁の下の力持ちって、尊い。
私は野菜の中でもとりわけゴボウが好きなのですが、それも、ゴボウという野菜が全然目立たないのに、それが入るだけでぐっと風味が変わったり旨味が溢れたりするからです。まさに、料理界での〝縁の下の力持ち〟的な存在のゴボウ。
私がうまくだるま落としのだるまが落とせないのは、もしかしたら、私の中の「下で支えるものをなんだと思ってるんだ!」的な憤りが、木槌を持つ私の手元を狂わせるからなのかもしれません。私の中の無意識が、上で君臨するだるまを地に落とそうと目論んでいるのか。
いやいや。
だるまもかわいそうですけどね。ヒヤヒヤしながら地盤沈下させられ、身ぐるみはがされた上に転がされるなんて。
ただだるま落としが下手である、ということに、以上のような屁理屈をこねたところで、2024年も残すところ、あと二日。
もうふたつ寝るとお正月ですね。「だるま落とし」をする際は、料理におけるゴボウのように、だるまを支える積み木たちと、恐怖を前に黙して坐すだるまの気持ちをちょっとだけ想像してみてください。うまくできなくなっちゃうかも。
2024年、『内言、漏れてるから』を読んで下さって、ありがとうございます。
2025年が皆様にとって、良い一年になりますよう。
(by 大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『心を紡いで言葉にすれば』第13回、いかがでしたでしょう。私もお正月といえば退屈極まりなかったのですが、そんな思い出も味わい深く感じられてくるマジックを存分に楽しみました。「だるま落とし苦手感」=「縁の下の力持ちへのリスペクト」説面白いですね。上から順に叩き飛ばしていくマイルールで遊んだことがあります。初手から首なしだるまにするルールだと簡単なんですが、だるまの頭を残して積み木だけを上から順に落とそうとすると、かなり難しいんですよ峰歩さん。
さて今年は『内言、漏れてるから』のご愛読、ありがとうございました。来年の第一回は1月6日、小説『刺繍』の続きからです。どうぞお楽しみに!
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