はいのサイさん、ふたたび 前編

この物語は、「はいのサイさん」の続編的なお話です。前作「はいのサイさん」からお読みいただくと、より楽しめます。

はいのサイさん、ふたたび 大日向峰歩作 illustration by Ukyo SAITO ©斎藤雨梟

【前編】

みなさん、お元気でしたか?
おかげさまで、わたくしは、息災にしております。サイだけに。

……ハッ。こういうのを〝おやじギャグ〟と言い、若い人には嫌がられるようで。
あいすみません。なにせ、久しぶりにみなさんとお目にかかれたのでうれしくって、つい。

過日ご説明したように、わたくしは肺に住んでおり、一年を通してそこから出ることはほぼなく、外の世界の出来事をあまり知ることはないのですが、携帯電話にある〝サイモード〟なるサービスでインターネットにアクセスすることはできるので、ニュースを目にすることはあります。

とはいえ、しょせん肺の中。
電波状況もあまりよくないので、サイモードを使うことができる時間は、とても短くなりがちです。

それでも以前は、一日に数回は電波がつながる時間帯もあったのですが、それもここ最近、ぐっと減りました。
わたくしが住む肺のオーナーの奥さんの肺で一人暮らしをしているわたくしの妻に、そんなブツブツと途切れがちな電話で苦情を述べたところ、それもこれも〝マスク〟とやらのせいだと教えてもらいました。

「マスクってなんだ?」

「口のところに、布を当ててるのよ」

「何のために?」

「ウイルスを吸いこむと、病気になっちゃうんだって」

「ウイルスって?」

「今、外の世界で、とってもたくさん飛んでるものなんだって」

「へえ。それはあれか、梅雨時のホタルみたいなやつか?」

「違うわよ。そんな素敵なものじゃないの。病気になるんだって」

「病気! それは嫌だなあ。布を当ててると、それを吸いこまないのか?」

「そうみたい」

「なるほど。布がガードするんだな」

「でも、入っちゃうのもあるみたい」

「なんで?」

「よくわからないけど……。すきまから入ったりするんじゃないの?」

「すきま! ……まったく。雑にやるからだ。ピタッとすればいいのだ。そういうのは、ふすまと同じだ。ぴっちり閉めておかないと気密性が下がるんだよ」

「そうね。でもそうしちゃうと、わたしたちの食べものである、空気も全く入ってこないわよ」

「……たしかに」

「わたし、最近、ちょっとやせちゃったのよ」

「なんで?」

「空気が入ってきづらいからじゃない」

「奥さんも、マスク、してるのか?」

「してるわよ。今はみんなしてるの」

「どうして?」

「だからウイルスを吸いこまないように……ってもう、ぼけちゃったんじゃないの? やめてよね。介護なんてできないわよ。マスクあるんじゃ、簡単に行ったり来たりできないもの」

「そうだな。ってことは、だんなさんもマスクしてるか?」

「そう。だからみんな……ってもうっ! こんな話してるひまはないのよ」

「いそがしいの?」

「そう。マスクのせいで、最近は一段と電波も不安定でしょ? いつ電話が切れてもおかしくないんだから」

「ああ、それのせいだったのか。最近、サイモードが不調でな。困ってたんだ」

「今日電話したのはね、そのマスクってのがどういうものかを……、あなたちょっと、また坂を……ぼって……てくれない?」

「え? なんて? 声が途切れてよく聞こえない」

「だから、わたしもマスク……、対策が取れなくて困って……。何か方法が……。お願いね」

「何をお願いだって? 聞こえないよ」

肝心なところで、携帯電話は切れました。
かけ直してみましたが、短くツーッと鳴ってすぐ切れてばかりで、一向にかかる気配がありません。

妻のお願いとは、何だろう。
途切れがちな電話の向こうで、妻は〝また坂を上って〟とか〝対策が取れなくて困って〟とか〝何か方法が〟と言っていたような気がする。

それにしても、都合よく途切れるものです。
さっきまでは、あんなに快調につながっていたのに。
こんなことなら、よけいな話なんてしなきゃよかった。数日ぶりに妻と話せたから、つい、無駄話しちゃって……。

途切れ途切れの言葉をつないで推理します。
わたくし、推理は得意なのです。子どもの頃には、探偵になりたかったくらいだし。

マスクのせいで、空気が入ってこない

わたくしたちの主食である空気が入ってこないから、妻はやせた

マスクをどうにかせねば、このままだと妻は(わたくしも)腹が減る(死ぬかもしれない)

敵はマスクだ

だが、我々は敵の正体をよく知らない

このような文脈で、妻の途切れた言葉をつなぎ合わせると……。

我々の主食である空気の流入をふさぐマスクというものがどういうものかわからないから、こないだのせんべいの時のように、わたくしに、クライミングしてマスクのある口まで登って、見て調べてきてほしい……ということなのだろう。たぶんきっと。

妻の話によると、すきまからウイルスが出入りすることがあるようです。だとしたら、空気をたくさん流入させる突破口くらいあるかもしれない。
そのすきまをなんとかして広げたら、空気はたくさん入ってくるようになるのかもしれません。ただしその場合、ウイルスなるものも、だけど。

かくして、わたくしは、数年ぶりにあの坂道を上ってみたのです。
毎日変わり映えのない日々を過ごし、何も変わらないと思っていても、時間は確実に過ぎておるのですなあ。

すっかり歳を取りました。
元々、運動不足で鈍い足取りが、さらに重く、まるで鉛のようです。
何度もくじけそうになりましたが、その都度、ハラを空かせてやせ細った妻の顔が浮かんできて、我が身を奮い立たせました。

いろんな意味でこわくて。

そうしてどうにかこうにか、この間よじ登ったところまでやって来ました。
さて、ここから先は、未知の世界です。前回は、この手前でせんべいと格闘し、勝利し、戻りましたから。

わたくしは、頭につけたヘッドライトの光量を最大限にして、きょろきょろと辺りを観察しました。

どうやらここは、オーナーの口の中のようです。
白いとがったものが、万里の長城のように、ピンク色の草原のような場所を部分的に取り囲んでいます。
草原は、少し湿っていてふかふかしています。おそらく〝舌〟と呼ばれる場所と思われます。

「そうすると、この、白い城壁のようなものは〝歯〟だな……」

ただ、オーナーの歯はほとんどなくなっていて、ところどころにある歯も細い棒のようなものでつながれていて、頼りなげです。

「これじゃ、守りがスカスカじゃないか」

そう言えば、前に妻に聞いたことがありました。
昔からオーナーは、寝る前にちゃんと歯をみがかなかったので、虫歯だらけで、たくさん歯がなくなってしまったらしいのです。

「確かにこれじゃあ、せんべいもよくかめなくて、かたまりのまま飲みこんでしまうわなあ」

前回のクライミングのことを思い出しながら、そんなことを考えます。
こんなに歯がなかったら、たやすくウイルスが侵入してくるのではないでしょうか。ウイルスの仕組みをよくわかりませんが。
でも今、わたくしがマスクなるものを観察するのには、むしろ歯のないほうが好都合です。

わたくしは、歯の跡地を乗り越えて、入口のそばまでやって来ました。
ところが、オーナーは、入口のゲートをしっかり閉めているので、なかなかその向こうにあるはずのマスクなるものを見ることができません。
どうしたらいいものか……。

こういう時、わたくしにできうることはただ一つ。
体当たりです。

助走をつけて突進します。
ドンッ!

オーナーの口が少し開いて、思わず外に飛び出そうになりました。
危ない、危ない。
出てしまったら、オーナーが強く息を吸いこみでもしない限り、戻ることはできません。

入口のところにある防波堤のような〝くちびる〟と呼ばれる場所の上に立って、外に落ちないように細心の注意をはらいながら、オーナーの息に合わせて近づいたり遠退いたりする、白い布をまじまじと観察します。

見たところ、密度が高い感じがします。ふつうの布のように、格子状に穴があるわけではなく、その間隔も比較的小さい上に大きさもまちまちです。
加えて表面が毛羽立っています。その毛羽が、わずかな空気の通り道をふさいでいるようにも見えます。

試みに、マスクに角で穴を開けようとしました。
でも、オーナーが息を吸う瞬間にしかマスクが近づいてこないので、なかなか容易ではありません。ほんの一瞬、角に触れた感覚では、かなり固い布のようです。角でぐりぐりと押し広げるためには、近づいたマスクに飛び移り、へばりついて作業するほかなさそうです。

これはなかなかの強敵ですぞ……。

わたくしは、一度舌の上まで戻り、そこから妻に電話で相談することにしました。肺の中よりは外の世界に近いので、電波を拾うことができると思ったのです。

その時です。
オーナーが軽く咳をしました。
わたくしは、バランスを失って、くちびるのへりから外にずり落ちてしまいました。絶体絶命の大ピンチです。
もはやこれまで! わたくしは天を仰ぎました。

【中編へ続く】

(作:大日向 峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

大日向峰歩作『はいのサイさん、ふたたび』前編、いかがでしたでしょう。ふたたび登場のはいのサイさん、前作『はいのサイさん』の時代設定はハッキリわかりませんでしたが、今作はたぶん2020年中頃……世界を揺るがしたあのパンデミックのあたりみたいです。あの頃感じた困難を思い出しながら、ふたたびサイさんの冒険を見守ってください。次回もどうぞお楽しみに!

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