
大日向峰歩作「はいのサイさん、ふたたび」タイトル illustration by Ukyo SAITO ©斎藤雨梟
【中編】
わたくしは、そっと目を開けてみました。
未知なる外の世界がこわかったのです。
飛び出た瞬間、とっさに目をつぶってしまったようです。見上げると、さっきまでいた、くちびるのへりが見えました。
「あそこから、落ちたのだな……。ということは、ここはどこだ?」
さっき一瞬だけ触れたマスクが、体のすぐそばにありました。
どうやらマスクの端っこがストッパーになって、下まで落ちることなく、中に留まることができたようです。
上のほうに開いたマスクのすき間から、ものすごくいろんな種類のにおいが混ざった空気が入ってきます。よくかぐと、中にはいいにおいもありますが、あまりにも種類が多すぎて、めまいがします。一刻も早く脱出しなければ、気が変になりそうです。
マスクのある側とは反対のほうに、さながら岩場に生える低木のようなものがたくさんあることに、気づきました。いわゆる〝ひげ〟というやつなのでしょう。
わたくしの住む肺のオーナーは、長引くマスク生活で、どうやら、ひげをそるのをなまけておられる模様。なんともだらしない様ですけれど、今はそのほうが好都合です。
「あれを足場にして、枝から枝に移るようによじ登って口の中に戻るとするか……」
ごましお色の低木のようなひげは、思いのほか張りがなく、わたくしの巨体が登るとぐねーっとたわみ、高さを失います。
「くそー。なかなか難しいぞ」
油断すると、足をつるっとすべらせて、ふり出しに戻りそうになります。
万が一、マスクのすき間が開いていて、さらに下に落ちてしまったら取り返しがつきません。ここは慎重に進みます。
どれくらいの時間、格闘したのでしょう。
くちびるのへりまで残りあと少しではあるものの、もはや、気力体力の限界をむかえるというその時、突然、マスクの外側にドシンと強い衝撃を感じました。
「何事だ!」
マスクの向こうから、聞き覚えのある声がします。
「……痛たたた」
「誰だ?」
「……えっ? お父さん?」
「……そう言うお前は、お母さんか?」
「そうよ」
「どうした? なんで外にいるんだ! だいじょうぶか? 何があったんだ?」
「どうしたって、いつもの奥さんの大型くしゃみで飛ばされたのよ」
「マスクは? 奥さんもマスクしてるんだろう?」
「ちょうどずらしてたのよ、奥さん。お茶飲もうとして」
「なんてこったい。お前、ケガはないか?」
「うーん。だいじょうぶ、だいじょうぶ。勢いよくぶつかったから、ちょっと全身が痛いけど、大したことないわ。……へえ、この白いのがマスクなのね」
「そうみたいだ。まあ、怪我無いならよかった。早く、こっち来い」
「行けないわよ。マスク、あるもん」
「そうだった。……どうする?」
「うーん。でも、このままだと、家にも戻れないわよね。だんなさんのくしゃみや咳の勢いに乗れないもの。マスク越しじゃ」
「確かに。でも、そのままってわけにもいかんだろう?」
「そりゃそうよ。だってここ、なんかすごくいろんなにおいが混じった空気がして、長いこといると胸やけしそうだもの」
「とりあえず、上のほうにすき間が開いてるから、そこからこっちに入って来い」
「どこ……って、えーっ! あんな上まで登るの、無理よ。足すべらせたら、それこそ一巻の終わりでしょう」
「まあなあ……。でも、他にどうしたら……」
その時、マスク越しに一瞬、妻のふくれ顔が見えたような気がしました。
「お前、ちょっとマスクにぐっと近づいてみろ」
「えっ、どういうこと?」
「だから、そこにいるんだろう? 顔をこっちにぐっと寄せてみるんだ」
「こう?」
「そうだ」
思った通りでした。
先ほど、くちびるのへりで観察した通り、マスクには不規則に開いた大小様々な穴があり、ちょうど我々の顔のあたりの穴が比較的大きめの穴で、その穴の向こうに、最愛の妻の顔がうっすら見えました。
「お前の顔、見える」
「えっ!」
「紗がかかって、女優さんみたいだぞ」
「あら。うふふふふ。ありがと」
「俺の顔も見えるだろう? ほら」
「えーっ。どこどこ? ……あ、ホントだ。おじいさんがうっすら見える」
相変わらずの憎まれぐちです。腹が立ちますが、ここでケンカしている場合ではありません。
「そこの穴を角でぐりぐり広げるんだ」
「やだあ」
「そんなこと、言ってる場合じゃないだろう。俺もこっちからぐりぐり広げるから」
「だったら、お父さんだけがぐりぐりすればいいじゃないの。それにわたしの角は〝おでき〟みたいなもので、大して役に立たないわよ」
「いいんだよ。たとえ〝おでき〟だろうが。俺がこっち側から一人でぐりぐりしても時間がかかるだけだろう。そのうち、お前、においにやられるぞ」
「……確かに」
「二人で、そっちとこっちから広げたほうが、早く穴が広がるだろう?」
「うんうん。そうね。じゃ、やってみる」
「そっちは、落ちたら終わりなんだから、くれぐれも気をつけてな」
「はーい」
マスクの外と内で、わたくしと妻は、すべり落ちないよう細心の注意をはらいながら、精一杯の力を振り絞って、互いの角でマスクの穴をぐりぐりと押し広げました。やがて穴は少しずつ大きくなってきました。
「ほら。そろそろ入れるだろう? そこを通ってこっちへ来い」
「うーん、うーん。……あらやだ。お腹がつっかえて抜けないわ」
「なんだと! でぶっちょめ」
「あら嫌だ。今は、でぶって言っちゃだめなのよ。それ〝ルックズム〟って言うのよ」
「それを言うなら、ルッ〝キ〟ズムな。とにかく、腹を引っ込めろって」
「そんなこと言ったって……抜けない」
「抜けない、じゃないぞ。ほら、がんばれ」
「……ちょっと! 変なところ、触らないでよ。くすぐったいじゃないの!」
「腹の周りを少し広げてやってるんだろう? 穴が裂けたら下まで落っこっちゃうぞ」
「やだあ! ちょっと、引っ張ってよ」
「仕方ないなあ……。腹、引っ込めて。ほら行くぞ!」
その時でした。
オーナーがマスクの外側をつまんで引っ張りました。
わたくしたちが、オーナーの口元でもぞもぞしているのが、気になったのかもしれません。
「うわあ!」
「きゃーっ! 落ちちゃう! 落ちちゃう!」
「しっかり穴にはまってろ!」
「だって、さっきあなたが少し広げたから……」
「しがみつけ!」
パンッ!!!
「きゃあ!」
「うわあ!」
マスクは勢いよく、オーナーの顔に打ち付けられました。
その拍子でわたくしたちは、オーナーのくちびるのへりにへばりつくことができました。
「こっちだ! 俺の手を離すな」
「いやあ! 離さないで」
「ここまで来たら、あとはくちびるを押し広げて中に入るだけだ」
「だって、歯があ……、あっ!」
「そうだ。だんなさんには、歯がほとんどない」
「そうだった! じゃあ、押せばいいのね」
「そうだ。でもくれぐれも慎重にな。ここで、ペッとされたらふりだしに戻るから」
「わかったわ」
そうして二人で、オーナーのくちびるをそっとぐっと押し開けて、口の中に入ることができました。
「やっと、ひとごこち、ついたわね」
「バカ。油断するな。ここでまた咳やくしゃみでもされたら、外に飛び出しちまうんだぞ」
「そっか。じゃあ、早く肺まで下りましょうよ」
「そうだな。下りるぞ」
途中、のどのがけを下りるところで、妻は相変わらず、ワーワー騒いでいたけれど、なんとか無事に肺まで戻ってくることができました。
いつもの定位置である座椅子にどっかと腰を下ろして、ようやく一息つくことができました。
「まあ、お茶でも……と言いたいところだが、あいにく何もなくてな」
「いいわよ」
「すまんな」
「だいじょうぶよ」
妻は、わたくしの向かいに同じく腰を下ろしました。
外の冒険があまりにも怖かったらしく、妻はなかなか自分の肺に帰ろうとはしません。
わたくしも、いろいろあってやはり不安な気持ちになっていたので、そばに妻がいてくれるのは心強く、無理に追い返そうとはしませんでした。
このままずっと、いてくれてもいい、とさえ思いました。
ただ、問題もありました。

サイさんの不自由なマスク生活が始まる!? photo by 大日向峰歩
【後編へ続く】
(作:大日向 峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『はいのサイさん、ふたたび』中編、いかがでしたでしょう。
今回は二人の大冒険です。一枚の布ごしの触れ合いに、穴にお腹がつかえる奥さん。映像化したいような見どころがいっぱいのスペクタクルでしたね! ひさびさにサイさん夫婦がともに過ごすひととき。さてどんな「問題」が勃発した? 次回、後編をどうぞお楽しみに。
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