【第二話】
数年前、アプリの予測とは違うタイミングで出血があった。
年頃からか、周りにも子宮系の病に罹患する友達が増えていたので、気になって婦人科へ行った。そこで更年期であることを告げられた。
言われてみたら、思い当たるところは多々あった。
元々短気な性格ではあった。でも最近は輪をかけて、ちょっとしたことで腹が立つ。
思春期の始まりには、何を見ても可笑しくて笑い転げたけれど、今はくすりとも笑えない。とにかくイライラする。とりわけ運転中はひどかった。スマホでも見ているのか、信号が変わってもそれに気づかず発進しないドライバーに、周囲の状況お構いなしに、車三台分入るくらい徒に車間をあけて停まるドライバーに、この車が通過するのを待てば後ろに車はいないのに、その一台が待てなくて無理に飛び出して急ブレーキを踏ませるドライバーに、さおりは苛立ち、その都度罵った。車という鎧の中で、誰もいないのをいいことに、腹の底から湧いて出る罵声を浴びせた。さおりのドライブレコーダーには、おそらく罵詈雑言がぎっしり録音されている。絶対に事故に遭うわけにはいかない。これらを提出するわけにはいかない。だから安全運転を心掛けた。
ホットフラッシュもひどかった。
さおりはモノトーンが好きだ。派手な色は小物に任せ、着るものは白、黒、灰色、時々濃紺と決めていた。けれど、更年期特有の尽きることのない突然の滝のような汗は、それらの色の服を着るのを許さない。それは時に、服をスケルトン化し、汗染みを際立たせる。染み込んだ汗が乾いた後は、塩を吹いたみたいに白い境界線が引かれる。
ドライアイも辛かった。
汗は止まらないのに、目は乾く。仕事柄、サングラスが必要な時も多く、コンタクトは必需品だ。けれども装着後五時間もすると、乾いたレンズが目に張り付き、瞼が閉じない。やがて、目の奥がズーンと重くなり、頭痛が始まる。
肩にのしかかるザックの重みも頭痛の悪化に拍車をかけた。
今すぐ横になりたいのに、何が悲しくて重荷を背負って足元の悪い山道を歩かなければならないのか。そんなことを考えていたら、猛烈に心が沈んだ。好きな仕事をして好きな場所にいるのに、どうしようもなく悲しい気持ちに苛まれる。そのうち、生きている意味が分からなくなる。こんな気持ちになるなんて、自分はなんてダメな奴なんだ。もう死んでしまったほうがいいのではないかと考える。そんなこと、できやしないのもわかっている。だから、何もしたくなくなる。こういう心持ちを抑うつと言うらしい。そしてこれも、更年期が連れてくる産物なのだそうだ。
抑うつは、眠ることを困難にする。不眠も酷かった。
一日中歩いて疲れ切っているはずなのに、眠れない。医師に処方された睡眠導入剤を飲みたいけれど、「もし寝過ごしてしまったら」と思うと怖くて飲めない。それでなくても山ヤの朝は早い。夜眠れない分、昼間、眠気が襲ってくる。自分が死ぬのはともかく、自分のせいで誰かの命を危険にさらすわけにはいかない。休憩の度にカフェインを過剰に摂取するので、胃は荒れ、トイレは近くなり、ますます夜に眠れなくなる。
でも何より困っていたのは、判断力や集中力、記憶力の低下だ。
登山ガイドとして、人の命を預かる以上、これらの低下は致命的だった。
山での判断力は、本当に生死を分ける。
集中力が切れた時、ミスが起こる。些細なミスが一生後悔するようなものにだってなる。記憶力の有無は運命の分かれ目だ。最近は、アプリで道がわかるものもあるけれど、谷筋や樹林帯ではGPSの精度が下がる。そしてそういう場所が、一番道迷いしやすい。よほどのことがない限り、尾根で道迷いすることはない。でも、絶対に迷うことなどない一本道だとしても、天候や時間や前を歩く他人に、人は容易に影響され、道を踏み外す。だから、自分の記憶が頼りなのだ。周囲の景色や太陽の方向、通ってきた道の形状、それら全てを記憶に留め、歩を進めなければならない。直近の記憶と経験の記憶をフル活用して、手元の地形図と照らし合わせて、進むべき道を辿る。
これらが頼りにならないということは、山岳ガイドとしての終わりを意味する。
これが更年期特有の一過性の症状であるならば、今少しだけ、ガイドの枠を制限すればよいかもしれない。だから最近のさおりは、不慣れな山域や長期間歩く縦走ツアーは断った。確かに収入は減った。だが幸いなことに、10年という月日は、さおりの名前だけでも、ある程度集客できるほどの知名度と人気を上げていた。女一人が暮らすには、なんとかやっていけた。判断力や集中力、記憶力の低下が、更年期にのみ起因するものであるならば、今しばらくそうやって凌いでいればいい。でももし、そうでなかったら……。さおりは、不安で圧し潰されそうになった。
(もしそれが加齢による衰えだとすれば、喪が明けても元に戻れないかもしれない。だとしたら、私はこの先、どうすればいいの?)
【第三話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第二話、いかがでしたでしょう。さおりにとっての「潮時」の意味がじわじわとわかってきました。ドライブレコーダーの罵詈雑言が安全運転のモチベーション、などのくだりに、綱渡り的困難をどうにか生きるリアルを感じてしまいます。この発散する先のない霧のような不安に、出口は見えてくるのでしょうか? 次回もどうぞお楽しみに。
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