【第五話】
ある日、いつものように登った山の記録をブログに綴っていたら、メッセージが届いた。
さおりも知っている登山雑誌の編集者を名乗る人物からだった。
「いつも楽しく拝見しています。さおりさんの切り口はとても新鮮で面白いです。今度、うちの雑誌でコラムを書いてみませんか?」
青天の霹靂だった。最初は疑った。
けれど、二、三度メッセージをやり取りして、本当なのだと知った時、身震いした。さおりは、二つ返事でそれを引き受けた。
それから三年、さおりは派遣社員とライターの二足の草鞋を履いて歩き続けた。
派遣社員として働いた対価で細々と生活をし、山へ行く軍資金を貯めた。ライター業での収入は、次のネタになる山道具を新調するのに使った。
でも、さおりの稼ぎでは、年に何回も遠征する余裕はなかったし、年に一、二度、北アルプスへ遠征に行くのと、週末に東京近郊の山に行くのが関の山だった。東京ほどではないにせよ、その時期のそれらの山は、やはり人で溢れていた。
何も変わらなかった。
ほんの少し、装備が増えただけ。ほんの少し、経験が増えただけ。ほんの少し、息がしやすかっただけ。
朝、みんなをごぼう抜きにして先頭に立って早歩きしても、前に進まない自分。歩いても歩いても、目的地に着かない道のり。そのうち、どこに向かって歩いているのかさえわからなくなる。まるで歩く歩道を逆走しているかのような毎日。
変えたかった。だから、そこへ行った。
有楽町の駅前にある〝ふるさと回帰支援センター〟は、たくさんのUターン、Iターン希望者で溢れ返っていた。さおりは、数ある移住先の中から長野県のとある町を選び、そこにいた窓口の担当者に言った。
「移住、したいんです」
お役所感の漂うネクタイ姿とは異なり、チェックのネルシャツに定住促進の文字が躍る派手な緑色のベストを身に着けた初老の男が、物腰柔らかに尋ねた。
「興味を持っていただいて、ありがとうございます。ここにあるたくさんの自治体の中から、どうして私共を選ばれたんですか?」
「山が好きで。山を見て暮らしていけたらいいなあと思って」
「なるほど。山ですか。そういう方は多いです。ここの山は本当にきれいですからね。では、お仕事もそういう方面を?」
「いえ。普通に事務系がいいんですけど。それしかできないし」
「今は都内にお住まい?」
「はい」
「ちなみに今は、どういうお仕事をなさっているのですか?」
「派遣で事務職です」
「そうなんですね。失礼ですが、年齢は?」
「三十九です」
「そうですか。ただ大変申し訳ないのだけど、その年齢だと、ご紹介できるものは正直かなり少ないです」
「そうですか」
「この辺で安定して働くなら、やっぱり介護関連の資格を取って働くのが一番かと。それ以外は、どうしても季節労働的なアルバイトやパートになってしまうかな……。あ! そうだ。ご結婚は?」
「してません」
「お子さんがいらしたりは……?」
「いいえ」
「そうですか。……いえね、うちはお子さんがいらっしゃるご家庭へのサポートが手厚いんですよ。特に移住される場合は、一年目は町のほうで住宅も無償で提供します。二年目からは家賃をお支払い頂くことになるのですが、それも相場からするとかなり格安だと思います。補助金も充実してますし。シングルマザーの場合もあてはまります。だからもしお子さんがいらっしゃるのであれば、いろいろとメリットも多いと思ったのですが……」
「すみません。いません」
「そうでしたか……。こちらこそ、すみません。……そうか」
さおりは居た堪れなくなった。
地方が都会から移住者を募っているのには、ちゃんとした理由がある。町の機能が失われないためにはお金がいる。税金を長期に渡って払い続けてくれる人が欲しい。活気も必要だ。町が健やかに育つためには、お金とサービスの循環がなくてはならない。それらを一気に叶えてくれるのが、子育て世帯、あるいは、これからたくさん子を産み育てる可能性のある若者。町はアラフォーの独り身女など求めていない。
「なんか、すみませんでした。いろいろ教えて頂いたのに」
「いやいや。……そうだ。山がお好きなんですよね。この辺りの山にも登られたことはあるんですか?」
「はい。北アルプスは、私が一番好きな山域なので」
「爺が岳は?」
「はい。登りました」
「鹿島槍は?」
「はい。両耳制覇しました」
「蓮華は?」
「はい。雪渓に雪がたくさんあって、ちょっと怖かったです」
「いろいろ登っておられるのですね。そういうの、記録とかは付けるんですか?」
「あ、はい。ブログで綴っています」
「お、そうなんだ……。見たいですね。見せてもらえないですか?」
移住希望者一人の面談が、時間で管理されているからなのか、町で求める移住者の枠からはみ出たさおりを気の毒に思ったからなのか、ネルシャツ姿の担当者は、もはや移住とは無関係の話をし始めた。一方、さおりもこのまま帰るには立ち去り難く、担当者の誘いに応じ、彼が差し出したPCに自らのブログのURLを打ち込んだ。
「おおー。すごいですね。サリー、さんというのですか?」
その声に反応したのが、さっきまでカウンターの奥にいた若い男だった。
彼は、ネルシャツ男とは異なり、見るからに役人然なスーツ姿で、ネルシャツが身に着ける派手なベストは着ていなかった。
「サリーだって?」
「仁科君、どうしたの?」
スーツ姿は仁科というらしい。ネルシャツの問いには答えず、スーツ男はさおりに尋ねた。
「……もしかして、ガクケイで連載してるサリーさん?」
「何、何? サリー? ガクケイ?」
「いや、雑誌ですよ。山の。有名ですよ」
「あ、そうなの? え、じゃあ、サリーさんってのは?」
「……私、です」
「ええっ! じゃあライターさんってこと? それならそう言ってくれたらいいのに」
ネルシャツが大仰な声を上げ、手首を折り曲げて空気を叩いた。
「でも、本業は派遣社員なので」
「サリーさんって、確か、本も出してますよね?」
「えええっ! そうなの?」
仁科の追加情報にネルシャツが体を仰け反らせて驚く。
「もう。平川さんは黙ってて。僕、サリーさんと話したいです」
ネルシャツ男は平川というらしい。仁科という若者にぞんざいに扱われていたが、別に気を悪くするようでもなかった。
「サリーさんが、うちの町に移住したいということですか?」
「……まあ、そう、ですね」
「それなら! いいのがあります」
そう言って、仁科がさおりに見せたのは、地域おこし協力隊のチラシだった。さっきまでの停滞は何だったのかと思うぐらい、それから話はとんとん拍子に進み、気が付けば、さおりは、その町の観光課で広報を担当する協力隊員に任命されていたのだった。
【第六話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第五話、いかがでしたでしょう。「潮時」を見極める苦しい決断を強いられているさおりにも、かつて浮き立つような幸福、充実した時間があったことを思わせるエピソードに少し安心しながら私は読みましたが、みなさまはどう思われましたか。この先が現在へどう続くのか、次回もどうぞお楽しみに。
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