私は20代の頃、自分を社交的な人間だと思っていた。この話を家人にしたら、「どうしてそんなことを思ったの?」と呆れられるのだが、当時の私には、それは至極当然のことに思われた。なぜか? 理由は簡単である。
人間は社交的であるべきだ。だから私は社交的だ。Q.E.D.
大学院生だった私は、学会の懇親会では積極的に高名な先生たちと研究の話をし、海外からのゲストにも、下手な英語で進んで話しかけた。他大学の大学院生たちとは、必ず誘い合って2次会に出かけた。プライベードでも、集まりには進んで参加し、初対面の人ともすぐに仲良くなった。
何かおかしい、と言うことに気がついたのは、30歳の頃だった。そう言った賑やかな集まりに参加すると、その後でものすごく疲れるのである。それも、はしゃぎすぎて疲れた、と言うレベルではない。1日か2日は何をするのも億劫になり、気分も激しく落ち込む。抑鬱状態といってもいいくらいである。
私は社交が嫌いになった。
だが、その期に及んでも私は、自分が社交的な人間ではないと言うことにはなかなか気がつかなかった。非社交的などということは、「あってはならないこと」だったのだ。
気がつくきっかけになったのは、村上春樹のブログだった。もっとも、当時はまだ「ブログ」と言う言葉はなかったと思う。20世紀の終わり頃のことだ。村上氏は、インターネット上で日々の雑事について気軽に語り、読者からのメッセージも受け付けると言う、今でいうブログのようなことを始めていたのだ。私は大の村上ファンだったので、そのブログが更新されるのをいつも楽しみにしていた。その中で彼は、たびたび、自分がいかに社交嫌いで人付き合いが
悪いかということを、面白おかしく語っていた。
自分の大好きな作家が、社交嫌いを宣言し、しかもそれをすごく楽しそうに語っている。私にとっては、まさに「目から鱗」の驚きだった。
その頃から、私は、自分が非社交的であることを認められるようになった。そして次第に、パーティーなどの賑やかな集まりにも、それほど無理をせずに参加できるようになった。今でも「社交的」という言葉とは程遠い私だが、集まりに参加することを、それなりに楽しめるようにはなった。格好良く言えば、「非社交性を認めることによって、社交性を獲得した」ということになろうか。
考えてみると、「認める」という言葉には、二重の意味がある。事実として認知、認識するという意味と、良いもの(少なくとも悪くないもの)として受け入れる、容認する、という意味と。英語のrecognizeやacknowledgeもほぼ同様だ。容認することができないものは、認識することすら難しいのである。認識できなければ、対処することもできない。
ニュースでは、不祥事が起こるたびに偉い人たちが「あってはならないこと」と繰り返す。今回話題にした例は、「あってはならない」と言っても、私の個人的な思い込みのようなものだったが、それでも私にとっては苦しい体験だった。
残念なことに、人の心の中には、「あってはならない」あるいは「あって欲しくない」ものがたくさんある。
嫉妬、利己心、怠惰、恐怖心、消極性。数え上げればきりがない。キリスト教徒ならばそういうものをまとめて「罪」と呼ぶのだろう。罪の存在を認められなければ、罪に対処することもできない。だが、そういうものを自ら認めるためには、許されることが必要ではないだろうか。だからこそ、例えばカトリックでは、罪の告白と、神による許しということを制度として行なっているのではないだろうか。
私の例に戻れば、村上春樹が自分の非社交性を冗談のネタにしてくれたことで、私の非社交性までが許されたと感じたわけである。なんだか、人々の罪を背負って自ら十字架にかかったイエスのような話である。
不祥事が起こるたびに「あってはならない」と言って否定するばかりでは、本当の解決には繋がらない。「そういうことは、私にも起こりうる」「そういう気持ちは、私にもある」と認めた上で、「では、人に迷惑をかけないためにはどうすれば良いか」と考えることが、問題解決の最初の一歩ではないだろうか。
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