なにわぶし論語論 落ち穂拾い1

子曰く、古(いにしえ)の学者(まなぶもの)は己(おのれ)の為にし、今の学者は人の為にす。
(憲問 二十四)

――――先生が言われた。「昔の学徒は、自分の研鑽のために学問をしたが、今の学徒は、人からの評価を得るためにする。」――――

言うまでもないことだが、孔子が生きていたのは、紀元前五百年前後、今から二千五百年も前である。したがって、孔子がいう「古(いにしえ)」というのは、それよりも前の時代だ。
だが、この言葉、現代の誰かの言葉だと言われても、不審に思う人はいないのではないか。
どこかの大学の名誉教授が、「昔の学者は、自分の科学的好奇心のために研究をしたもんだ。近頃の連中は、人事評価のためにばかりあくせくして、その挙句にデータを捏造したり、ハゲタカジャーナルに引っかかったり。まったく嘆かわしい。」とかぼやいているというのは、全くありそうな話である。つまりこの「いにしえ」というのは、いわば「永遠のいにしえ」なのだろう。

なぜこういうことになるのだろうか。
よくオリンピックやW杯に出場するスポーツ選手がインタビューで、「結果のことは考えずに、自分のプレー(演技)に集中します。」とか答えているのを聞くが、どんな仕事でも、世界のトップクラスにいる人というのは、評価のことを忘れて仕事に集中することができる人なのだろう。そういうことが十分にできる人はどの世界にもそんなにたくさんいるわけがないが、そういう人が有名になって、後世まで名を残すから、「いにしえの人は・・・」ということになるのではないだろうか。

さて、「人の為にす」の「人」とは一体誰のことだろう?
孔子の時代の官僚、政治家にとっては、当然国王あるいは有力な門閥貴族ということになるだろう。「人の為にす」ということは、そういう偉い人にウケるようなことをする、あるいはゴマをするということだろう。
時代が下って二十世紀になっても、「白い巨塔」のようなことが(あれはフィクションだが)まだまだたくさんあった。二十一世紀になったらさすがになくなったかと思ったら、どっかのアメフト部のような問題が起こったり、「忖度」が流行語になったり。いくら「それではいかん」と、孔子やどこかの名誉教授が力説しても、人はこれまでいつも「人の為にし」続けてきたし、今後改善されると考える理由も見当たらない。どうやら「人の為にす」は、人類の永遠不変の行動原理のようである。

だが、人類も手をこまねいていたわけではない。「人を人が主観的に評価するからいけないのだ」というわけで、「客観評価」と呼ばれるものが重視されるようになった。ところが、ある人の行動、人格の全てを客観的に評価することはできない。どうしても、ごく一部の「客観化することが可能な」点を拾い出して評価することになる。そして、そのような「客観評価」に対しては、さまざまな「対策」が開発されていくのが世の常である。人による評価から客観的基準による評価に変われば、人ではなく基準におもねる人が増える道理である。主観的評価を客観評価に変えれば全てがうまくいくとは、あまり信じない方が良いだろう。

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