心・脳・機械(2)「心」の主観的な体験と客観的な観察

前回は、心理学や神経科学などの科学が扱う「心」と、日常会話で話される「心」では、その内容が微妙に違うということを書いた。
日常私たちが「心」という言葉を使うと、もっぱら、感情や意志などの、価値判断や行動決定をする内的な仕組みのことを指す。ところが、科学で「心」というと、知覚や記憶などの比重が大きくなってくる。

もうひとつ、科学の文脈とそれ以外の場面での「心」という言葉の使い方の違いとして、客観性ということがある。私たちが「心」という言葉を使う場合、普通は主観的な体験、その感じ方が重要なのに対し、科学においては心といえどもあくまでも客観的に扱わなければならない。
このことについては、少し前に「電車 居眠り 夢うつつ 第45回 脳の研究で心がわかりますか?」で触れた。心理学の中には「行動主義」という伝統的な考え方があり、もっとも極端な人たちは「客観的に観察できる刺激と行動の関係以外に「心」などというものは考えない」としている。こんなことを言われると、普通の人なら、「それのどこが心だよ? どこが「心」理学だよ?!」と言いたくなるだろう。

しかし、実は科学研究の場面以外でも、私たちは「心」をけっこう客観的に捉えているし、また客観的に判断するほうが良い場合が多いのではないだろうか。
私自身の例を挙げてみよう。私は10年くらい前に、大学内のある委員会の委員になった。大学といえども組織であり、当然様々な雑用がある。教員組織というのはフラットな組織なので、エライ人が「君、これをやってくれたまえ」などと簡単に命令することはできない。そこで、様々な雑用について委員会を作り、全教員が回り持ちで委員を務める。
例えば、広報委員会、衛生委員会、図書委員会など、私の所属する小さな部局でも30近い委員会があるので、いつも一人当たり3つか4つの委員会を掛け持ちすることになる。

私もいつもいくつかの委員会に入っているが、ある年、ある特定の委員会だけ、毎回のように予定を忘れて、会議を欠席したり遅刻することが続いた。(不思議なことに、同じ時期でも他の委員会ではそういうことは起こらなかった。)手帳に書き忘れたこともあれば、忘れないように壁にメモまで貼ったのに、直前に学生とディスカッションを始めて、忘れてしまったということもあった。
当然委員長からは睨まれた。だが、神かけて言うが、私はその委員会を軽視していたわけでも、仕事がしたくなかったわけでもない。一生懸命やろうとしていたのである。少なくとも主観的には。
だが、残念ながら、私がその委員会の仕事を一生懸命やっていたと考える人はまずいないだろう。この場合は、「一生懸命やろうとしていた」という私の主観的な考えよりも、特定の委員会の毎回の遅刻や欠席という、「客観的に観察できる刺激と行動の関係」に基づいて考えるほうが、おそらく正しいのだ。

こういったいわゆる錯誤行為に注目して、人の心の中に、本人が意識できない部分があることを明らかにしたのがジグムント・フロイトだ。そう考えると、精神分析というのは、出発点では行動主義心理学とかなり近い部分があったと言えそうだ。
ただし、行動主義心理学は、刺激と行動をつなぐ関数をブラックボックスとした(20世紀後半以降、そのブラックボックスの中に脳を押し込もうとする努力が広く行われている)のに対し、フロイトとその後継者たちは刺激と行動をつなぐ関数系を独自に提案した訳だ。

(by みやち)

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