老化と介護と神経科学5 アリセプトの「薬効」(2)

物忘れが多くなり、無気力になってきた父を私は首尾よく説得し、医者に連れて行った。
抗認知症薬アリセプトの内服が始まり、父は快活さを取り戻した。
当然私は喜んだ。あまり効かないという噂の多い薬だったが、父には効いたのだ。物忘れの症状は残ったが、QOL(Quality of life, 生活の質)は確かに向上した。良い薬だと思った。だが、今あらためて考えると、父にアリセプトが本当に効いたのか疑問である。

いや、私は今でも、この治療を受けることで、父の状態が改善したことについては確信を持っている。だが、それがその薬の薬理的効果によるものだったかという点が疑問なのである。
薬の服用を始めてから、父の話し方は改善した。それまでの、呂律の回らない喋り方は無くなり、口調は明確になった。全体としての印象も、ぼーっとした感じがなくなり、快活になった。だが、それ以降定期的に受けた認知機能検査の点数は改善せず、むしろ、少しずつではあるが着実に下がって行った。
日常生活でも、物忘れが減ったという印象はほとんどなかった。つまり、物忘れなどの認知機能障害は改善されず、意欲などの精神症状のみに効果が見られたわけだ。

アリセプトが認知症治療薬として承認された時のエーザイ製薬のニュースリリースには、以下のように書いてある。
「認知機能障害について、アリセプト10mg投与群は、12週間投与の最終評価時において、プラセボ投与群に比べて統計学的に有意な改善効果を示すとともに、52週間にわたり認知機能を投与開始時の水準よりも高いレベルに維持することが確認されました。精神症状・行動障害については、アリセプト投与群とともにプラセボ投与群でも改善がみられ、12週間投与最終評価時においては、両群に統計学的な有意差は認められませんでした。」

認知機能はアリセプトの投与でのみ改善したが、精神症状はプラセボ(偽薬)でも改善されたのだ!

他の人のことはわからない。当時の父について想像してみる。これはあくまで私の想像であるが、私はかなりの確信を持っている。
息子たちは独立し、離れて暮らしている。妻との気楽な二人暮らしだった。
だが、最近自分の記憶があやふやになり、あるはずのものがなくなったり、突然未払いの請求書が現れたりするようになった。これは世間で言う「認知症」と言うものではないだろうか。
これはおそらく、恐ろしいことだったろう。恐ろしいが、自分が認知症とは認めたくないし、どうして良いかわからない。人に相談する気にもなれない。
こんな状態が続けば、鬱になり、無気力になっても当然である。そんな時に、相談できる医者が現れた。しかも、認知症は薬で治るらしい。
こうなれば、抑うつ気分も無気力も、一気に治ってしまっても何の不思議もない。これは一種の精神療法と言えるかもしれないが、薬の薬理作用とは関係がないだろう。

では、この「治療」は、アリセプトという薬を抜きにして成立しただろうか?

医者に行く。様々な検査を受け、診断を聞く。「あなたは初期の認知症です。これから病気はゆっくりと進行するでしょう。薬はあまり効かないと思いますので、治療はしないでおきましょう。生活環境を整えて、今後に備えてください。」そう言われたら、どうなっただろう。

やはり、アリセプトという薬、あるいは薬に対する信頼を抜きにしては、この治療は成立しなかったと思われる。

最近、医療において「エビデンス・ベースド・メディスン」(evidence-based medicine(科学的)根拠にもとづいた医療)ということが盛んに言われるようになった。医療は、必ず科学的根拠にもとづいておこなわれなければならない、という、一見当たり前の考え方だ。
だが、私の父の場合、認知機能検査という科学的な方法によって、アリセプトの効果は認められなかったわけだ(*)。精神症状の改善は、臨床試験によってアリセプトの効果とは認められなかったわけだから、これらのエビデンスにもとづけば、アリセプトの投与は不適切と言えるだろう。
「エビデンス・ベースド」はきわめて重要な考え方だが、狭い意味の「科学的根拠」を金科玉条にしてはいけないようだ。

(*)正確に言えば、薬を飲んだ場合の認知機能の落ち方が、飲まなかった場合に比べて緩やかであれば、効果はあったことになるが、これを一人の患者で検証することは不可能である。

(by みやち)

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