老化と介護と神経科学6 「認知症」は病気か?

前にも書いたが、私は「認知症」という言葉があまり好きではない。もちろん、医学的に診断し、原因がわかるものについて治療をすることは大切だ。しかし、そもそも年齢が高くなれば、体の他の器官と同様、神経系も機能が低下するのが当然である。それをすべて病気と捉えるのが正しいこととは、私には思えない。

……などと考えていたら、同じようなことを考えているお医者さんの文章を発見したので、ちょっと嬉しくなった。長いので、一部分を引用してみる。

「85歳以上の年代なら、ほぼ2人に1人が認知症なのである。これを病気と呼ぶのが適当なのだろうか。むしろ老化現象の一つあるいは性別や性格などその人の個性、属性と見る方が正しいのではないかと思える。
(中略)世界に誇る現代日本の長寿は、社会と医学が獲得した大きな福音である。長寿になると社会全体がお祝いをする。ところが、長寿に伴って必ず生じてくる認知症という現象には、「困った問題だ」という目でみる。
こんな奇妙なことがあるだろうか。長寿を礼賛するなら、認知症も祝福しないと理屈に合わない。それが難しいなら、せめて社会全体が認知症の人を肯定し、歓迎の気持ちで迎え入れるべきだ。」
(上田諭 「長寿が招く認知症に肯定を」毎日新聞 医療プレミア

「認知症の人を肯定し、歓迎」しろと言われると、そんなことは無理だと思われるかもしれない。しかし、認知機能障害を、歩行障害や視覚障害と同列に扱うことはできるはずである。
歩行障害も視覚障害も大変な苦労には違いないが、認知機能障害(いわゆる「認知症」)ほどには恐れられても忌み嫌われてもいない。
認知機能の障害は、視覚や歩行機能の障害と違い、障害があるだけで不幸に直結すると思われがちである。しかし、私はそうではないと思う。認知機能の障害は、大きなハンディキャップではあっても、それだけで絶望するべきことではないはずである。

世の中には、認知機能が顕著に低いにも関わらず、全く正常とされ、祝福さえされている人々がいる。子供たちだ。
幼児期、児童期の子供達は、単に経験や知識が少ないわけではない。作業記憶、実行機能、注意の制御、抑制機能など、様々な認知機能が、大人に比べて劣っている。しかし、人生のはじめの一時期にそのような状態であることは、全く正常とみなされ、それをサポートする仕組みが太古の昔からあるのだ。ならば、長い人生(人生百年時代!)の最後の一時期に同じような状態になったとしても、そんなに異常扱いしなくても良いのではないか。
すべての「認知症」の人を「病気」とみなして「正常」に戻すことに努力するより、当たり前の存在として、我々が受け入れる方法を考えることの方が重要と思われる(*)。

実際、「認知症」については、記憶、注意などの認知機能の低下それ自体(中核症状)よりも、不安や、認知機能障害のために起こる誤解や行き違いなどによる問題行動(周辺症状、あるいは心理行動障害)の方が大きな問題であると言われている。
みんなが加齢に伴う認知機能障害についてある程度の知識を持ち、トラブルが起こらないように努力をすれば、認知機能にある程度の障害がある人でも、ハッピーに暮らすことは可能だと思う。

……という今までの議論は、高齢者を介護する立場に立っている私の目線からの議論だ。では、あと20年後あるいは30年後、私自身の認知機能が落ちた時には、私は何をすれば良いだろうか?
残念なことに、私は答えを持っていない。目の前の老人のために何ができるかについては、ずいぶん考えてきたつもりだったが、自分が老人になった時のために何ができるかは、ほとんど考えてこなかったのだ。
まあ、まだ時間はある。ゆっくり考えていきたい。

(*歩行や視覚の障害についても、障害を補うためのbrain-machine interfaceなどの技術開発が進められているが、それ以前に社会の側が、障害者用トイレや点字掲示板の設置など、車椅子の人や目の見えない人を受け入れるしくみを作ったり、障害者に対する偏見をなくすための啓蒙活動をしている。認知機能障害についても、同じようなアプローチが取れるはずである。)

(by みやち)

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