知恵の実を食べたアダムとイブはどうなったのか?


もう少し、聖書の話を続ける。

創世記の中でも、アダムとイブが禁断の知恵の樹の実を食べたためにエデンの園から追われる話は、最も有名な逸話の一つだろう。ではこの時、二人に何が起こったのだろう?
言うまでもなく、正統な解釈は、書いてあるその通りのことが起こった、というものだ。それは尊重する。だが、非キリスト者、非ユダヤ教徒の私としては、これは人類の進化を示す物語であるという解釈を、控えめに提案してみたい(注1)。

もちろん、知恵の樹の実を食べる以前から、アダムとイブ(に代表される人々)は、ヒトであった。彼らがどのような姿をしていたかについては、創世記の中では「神は人をご自分の象の通りに創造された」としか書かれていない。神の姿についての記述が無い以上、アダムとイブの姿もわからないわけだが、エデンの園を出てから形態が変化したという記述も無いから、おそらく現代の我々同様、直立二足歩行をしていたのだろう(注2)。

言語をもっていたのは、聖書の記述から明らかである。
神は様々な動物を作り、「人がそれにどんな名前をつけるか見ようとされた。すべて人がそれにつける名はそのままその名前となった」。
直立二足歩行をして、言語をもつ動物、というのは、現在最も有力なヒトの定義だ。彼らは、知恵の実を食べる以前から、すでにヒトだったのだ。
だが、彼らの生活はとても素朴なものであった。衣服は身に着けず、主に果実を採集して生活していた。農耕は、彼らが知恵の樹の実を食べ、エデンの園を出た後に始まる。
「君のために土地はのろわれる。そこから君は、一生の間労しつつ食を得ねばならない」

農耕というのは、時間のかかる仕事である。今目の前にある植物の種や実を、食べずに土に撒き、数ヶ月に渡って世話をし、収穫を得なければならない。採集と異なり、長期の時間的展望が必要とされる。
おそらく彼らが身につけた知恵とは、遠い将来を見通す能力だったのではないか。

また、エデンの園を去る二人に神は、皮衣を与えたと書かれている。皮衣は、寒さを防ぐのに適した衣類だが、それを作るには、ナイフ、弓などの様々な道具をあらかじめ用意し、時間をかけて動物を追い、倒して皮を剥がねばならない。これも、長期にわたる計画が無ければ手に入らないものである。

先日、ある認知科学者の講演を聴く機会があったが、彼は、遠い過去や将来のことを考える能力(mental time travelと呼ぶのだそうだ)を、現在のヒトとヒト以外の動物を分ける非常に重要な認知的な特徴であると話していた(注3)。

人類進化の過程で、mental time travelの能力が、言語や直立二足歩行より後に発達したという証拠は無い。だが、アダムとイブが知恵の樹の実を食べたという聖書の記述が、この能力の急激な発達を表すとすれば、創世記に書かれたもう一つの重要なことがらとも符合する。

「その樹(知恵の樹)から食べるときは、君は死なねばならない」
知恵の木の実を食べるまでは、ヒトは自分がいつか死ぬことを知らなかった。知恵の樹の実を食べ、mental time travelの能力を身につけたために、将来自分が死ぬという事実にも気づいてしまったのだ。

と、このような解釈はいかがだろうか?

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注1 旧約聖書をはじめ、様々な神話、昔話の内容が、ヒトの心の進化に符合するというのは、新しい考え方ではない。C. G. ユングと彼の後継者たちはこの視点に立って世界中の神話、昔話の研究をしてきた。創世記の知恵の樹の実の逸話については、意識の成立を表すとする考え方がある。

注2 人類進化を研究する人たちは、直立二足歩行をもってヒトの定義とする。骨盤と足の骨の化石から判定しやすいからだ。逆に言えば、直立二足歩行をしない生物は、どんなにヒトに近縁であっても、ヒトではないとされる。

注3 ちなみにチンパンジーは、1日程度先の出来事までは予見し、準備することが知られているそうである。

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