【善財くんがゆく!】第八話 善財くん、初めて海を見る:第二の善知識・海雲比丘 (5)

海雲は、
しばらく砂浜に描いた線を見つめていた。

波が来る。

線の端をさらっていく。

だが海雲は気にしない。

むしろ、
それを眺めながら頷いていた。

「形あるものは、
いずれ崩れる」

波。

「だから面白い」

善財は、
その消えかけた線を見つめた。

ほんの少し前まで、
複雑な図だった。

だが今はもう、
半分ほど海に呑まれている。

海雲は流木を置いた。

「知識も同じじゃ」

善財は顔を上げる。

「覚えたことも、
理解したことも、
放っておけば崩れていく」

海を見る。

「だから何度でも、
観直さねばならん」

善財は、
徳雲の言葉を思い出していた。

――“分からぬ”まま歩け。

海雲はそれに、
別の形を与えている気がした。

――見続けよ。

――聞き続けよ。

――何度でも観直せ。

それは、
答えを“所有”する道ではない。

世界との関わりを、
やめない道だった。

海雲はふいに善財を見る。

「おぬし、
少し顔つきが変わったな」

「え?」

「海へ来た時より、
目が柔らかくなった」

善財は少し照れた。

「そうでしょうか」

「うむ」

海雲は頷く。

「最初のおぬしは、
“正しい答え”を掴もうとしておった」

波。

「今は、
“世界を見よう”としておる」

善財は、
しばらく黙って海を見つめた。

確かに、
そうかもしれない。

旅に出たばかりの頃の自分は、
もっと単純に考えていた。

偉い人に会えば、
何か決定的な答えをもらえるのだと。

だが、
徳雲も海雲も違った。

二人とも、
“完成された答え”など渡してこない。

むしろ逆だ。

世界は広い。

世界は深い。

まだまだ見えていない。

そのことばかり教えてくる。

だが不思議と、
嫌ではなかった。

怖さよりも、
知りたい気持ちの方が強い。

海雲は静かに笑った。

「それでよい」

そして、
また海を見る。

「海も、
一歩ずつしか渡れん」

善財は苦笑した。

「それは無理じゃないですか?」

「うむ。
だから船を使う」

海雲は真顔で答えた。

善財は吹き出した。

海雲も笑う。

潮風が二人の間を吹き抜ける。

しばらくして、
海雲はふっと空を見上げた。

夕暮れが近づいていた。

西の空が、
ゆっくり赤く染まり始めている。

海もまた、
金色に輝いていた。

海雲は小さく呟く。

「……今日も、
ずいぶん多くの声が流れておる」

善財は黙って聞いている。

海雲は目を閉じた。

「泣いておる者。
怒っておる者。
祈っておる者」

波。

「助けを求める声」

波。

「誰かを愛する声」

その横顔は、
どこか寂しそうでもあり、
優しそうでもあった。

海雲は静かに言う。

「菩薩というのはな」

善財は顔を上げる。

「その声を、
聞くのをやめぬ者のことじゃ」

波が砕ける。

「全部を救うことは、
できんかもしれん」

また波。

「だが、
聞くことはできる」

海雲は、
遠くの水平線を見つめた。

「海のようにな」

善財は、
胸の奥が熱くなるのを感じた。

海雲は、
ゆっくり善財へ向き直る。

「さて」

「はい」

「そろそろ行くがよい」

善財は深く頷いた。

そして砂浜へ跪き、
深く頭を下げる。

「ありがとうございました」

海雲は笑った。

「うむ」

善財は顔を上げる。

海雲はもう、
半分ほど海の方へ意識を向けていた。

波。

風。

潮。

遠い船。

無数の声。

それら全部を、
静かに聞いている。

海雲は、
ふいに思い出したように言った。

「ああ、そうじゃ」

「はい?」

「善住比丘のところへ行く途中、
山道で赤い実を見つけても食うな」

善財は目を瞬かせた。

「え?」

「腹を壊す」

「……それ、
修行の話ですか?」

「大事な話じゃ」

海雲は真顔だった。

善財は思わず笑った。

海雲も笑う。

そして小さく手を振った。

「よい旅を」

その声は、
波の音に溶けるほど静かだった。

善財は立ち上がる。

海を振り返る。

果てのない水の世界。

だが、
もう最初ほど恐ろしくは見えなかった。

広さの中に、
どこか温かさを感じる。

世界は広い。

深い。

複雑だ。

だが、
すべてはどこかで繋がっている。

海雲比丘は、
それを海から学んだのだろう。

善財はもう一度だけ頭を下げ、
歩き出した。

海辺を離れ、
次なる善知識――

“空を観る男”
善住比丘のもとへ向かうために。

背後では、
波の音がいつまでも続いていた。

まるで世界そのものが、
静かに呼吸しているように。


☆     ☆     ☆     ☆

★ペーパーバック版『別訳【夢中問答集】(全3巻)』遂に完結!!
「夢」とは何か? そしてその中で交わされる問答とはいったい?
室町幕府初代将軍足利尊氏の弟である足利直義の切実な問いを受け、禅の名僧夢窓国師こと夢窓疎石が開く「真実の法門」とは!? 700年前のディアロゴスの軌跡が、現代に甦る!

 

★ペーパーバック版『別訳【碧巌録】(全3巻)』
「宗門第一の書」と称される禅宗の語録・公案集である「碧巌録」の世界を直接体験できるよう平易な現代語を使い大胆に構成を組み替えた初心者必読の超訳版がついに完結!
全100話。公案集はナゾナゾ集ですので、どこから読んでもOKです!

 

スポンサーリンク

フォローする