海雲は、
しばらく砂浜に描いた線を見つめていた。
波が来る。
線の端をさらっていく。
だが海雲は気にしない。
むしろ、
それを眺めながら頷いていた。
「形あるものは、
いずれ崩れる」
波。
「だから面白い」
善財は、
その消えかけた線を見つめた。
ほんの少し前まで、
複雑な図だった。
だが今はもう、
半分ほど海に呑まれている。
海雲は流木を置いた。
「知識も同じじゃ」
善財は顔を上げる。
「覚えたことも、
理解したことも、
放っておけば崩れていく」
海を見る。
「だから何度でも、
観直さねばならん」
善財は、
徳雲の言葉を思い出していた。
――“分からぬ”まま歩け。
海雲はそれに、
別の形を与えている気がした。
――見続けよ。
――聞き続けよ。
――何度でも観直せ。
それは、
答えを“所有”する道ではない。
世界との関わりを、
やめない道だった。
海雲はふいに善財を見る。
「おぬし、
少し顔つきが変わったな」
「え?」
「海へ来た時より、
目が柔らかくなった」
善財は少し照れた。
「そうでしょうか」
「うむ」
海雲は頷く。
「最初のおぬしは、
“正しい答え”を掴もうとしておった」
波。
「今は、
“世界を見よう”としておる」
善財は、
しばらく黙って海を見つめた。
確かに、
そうかもしれない。
旅に出たばかりの頃の自分は、
もっと単純に考えていた。
偉い人に会えば、
何か決定的な答えをもらえるのだと。
だが、
徳雲も海雲も違った。
二人とも、
“完成された答え”など渡してこない。
むしろ逆だ。
世界は広い。
世界は深い。
まだまだ見えていない。
そのことばかり教えてくる。
だが不思議と、
嫌ではなかった。
怖さよりも、
知りたい気持ちの方が強い。
海雲は静かに笑った。
「それでよい」
そして、
また海を見る。
「海も、
一歩ずつしか渡れん」
善財は苦笑した。
「それは無理じゃないですか?」
「うむ。
だから船を使う」
海雲は真顔で答えた。
善財は吹き出した。
海雲も笑う。
潮風が二人の間を吹き抜ける。
しばらくして、
海雲はふっと空を見上げた。
夕暮れが近づいていた。
西の空が、
ゆっくり赤く染まり始めている。
海もまた、
金色に輝いていた。
海雲は小さく呟く。
「……今日も、
ずいぶん多くの声が流れておる」
善財は黙って聞いている。
海雲は目を閉じた。
「泣いておる者。
怒っておる者。
祈っておる者」
波。
「助けを求める声」
波。
「誰かを愛する声」
その横顔は、
どこか寂しそうでもあり、
優しそうでもあった。
海雲は静かに言う。
「菩薩というのはな」
善財は顔を上げる。
「その声を、
聞くのをやめぬ者のことじゃ」
波が砕ける。
「全部を救うことは、
できんかもしれん」
また波。
「だが、
聞くことはできる」
海雲は、
遠くの水平線を見つめた。
「海のようにな」
善財は、
胸の奥が熱くなるのを感じた。
海雲は、
ゆっくり善財へ向き直る。
「さて」
「はい」
「そろそろ行くがよい」
善財は深く頷いた。
そして砂浜へ跪き、
深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
海雲は笑った。
「うむ」
善財は顔を上げる。
海雲はもう、
半分ほど海の方へ意識を向けていた。
波。
風。
潮。
遠い船。
無数の声。
それら全部を、
静かに聞いている。
海雲は、
ふいに思い出したように言った。
「ああ、そうじゃ」
「はい?」
「善住比丘のところへ行く途中、
山道で赤い実を見つけても食うな」
善財は目を瞬かせた。
「え?」
「腹を壊す」
「……それ、
修行の話ですか?」
「大事な話じゃ」
海雲は真顔だった。
善財は思わず笑った。
海雲も笑う。
そして小さく手を振った。
「よい旅を」
その声は、
波の音に溶けるほど静かだった。

善財は立ち上がる。
海を振り返る。
果てのない水の世界。
だが、
もう最初ほど恐ろしくは見えなかった。
広さの中に、
どこか温かさを感じる。
世界は広い。
深い。
複雑だ。
だが、
すべてはどこかで繋がっている。
海雲比丘は、
それを海から学んだのだろう。
善財はもう一度だけ頭を下げ、
歩き出した。
海辺を離れ、
次なる善知識――
“空を観る男”
善住比丘のもとへ向かうために。
背後では、
波の音がいつまでも続いていた。
まるで世界そのものが、
静かに呼吸しているように。

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★ペーパーバック版『別訳【夢中問答集】(全3巻)』遂に完結!!
「夢」とは何か? そしてその中で交わされる問答とはいったい?
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