デカローグ第8話:緑のプール

盗んではならない

屋根が見えてきた。青い瓦の屋根が。
近づくにつれて、背丈ほどの高さになった雑草が目に入る。

(はーっ。もうあんなに伸びてる。こないだ刈ったばかりなのに……)

前回来た時、綺麗に刈り取って、その跡に一面除草シートを敷いた花壇から、また見慣れない草が伸びていた。地面にはその草から落ちたと思われる花がいくつか、色褪せて散っていた。

玄関のドアは、相変わらず施錠されていなかった。

「お母さーん、また何か植えたの?」

奥から、百合子が顔を出した。

「あら、果歩。いらっしゃい。今日は何?」

「何?じゃないよ。お母さんが呼んだんでしょ。お水がなくなったから持ってきてって」

「そうだった? 確かにもうないのよ、お水。よかった。持ってきてくれて」

百合子は長い間『天命水』なる水を愛用している。
とはいえ、自分で飲むようになったのは、二年前からだ。

三年前、果歩の父、和成が亡くなった。
和成は、十年ほど前から原因不明の病気に罹患していた。医学的な根拠は何ひとつないけれど、その水が病気に良いとして、百合子が買って飲ませていたのだ。

一周忌は自宅でやりたいと、百合子が言った。
元々散らかっている家だった。百合子はあまり片付けが得意ではなかった。

一周忌くらいなら、さすがにまだ親戚たちも来るし、斎場か寺で、と思っていた果歩は反対した。でも百合子の意志は固かった。仕方なく、法要ができるくらいは片付けようと実家に行って、果歩は我が目を疑った。

天命水の箱が、家中に溢れていたのだ。

前に来た時は一部屋に押し込められていたそれが、アメーバーみたいに増殖し、部屋という部屋に押し込められていた。忙しさにかまけて実家へ足が遠のいていて、果歩は気づくのが遅れた。

「どうして増えてるのよ? お父さん、もう死んだんだから買わなくていいでしょ」

果歩は訳が分からず、百合子に尋ねた。
だが埒が明かない。記憶があやふやなのかもしれないし、怒られることを警戒して、本当のことを言わないからなのかもしれない。

やむを得ず、百合子から話を聞くのは諦め、業者に問合せてさらに驚いた。
百合子は、2リットル入りのペットボトル6本入りの箱が、二日に一回届く契約をしていた。自分では1本も飲まず、全て和成に飲ませるために。
そしてそれは、和成が亡くなった後も続いていた。それじゃ、溜まっていくはずだ。

果歩は、業者に事情を話して解約し、家中に置かれた水をせっせと使った。
百合子にも飲むように言った。百合子は、最初こそ「お父さんのお水だから」と言って飲もうとしなかったが、そのうち、普通に料理などにも使うようになった。それどころか、やがてそれを庭の水やりにさえ使うようになった。ペットボトルの水の消費期限は、概ね2年。まだ普通に飲めるそれを、花の水やりに使うのはもったいないと果歩は思った。
だから、夫と共に車で来た時に、自分たちの家にもいくらか持ち帰ったりもした。その水は、病が治るような特別な感じは特にしなかったが、普通に美味しかった。

そうして半年ほどで、家中の水を遂に使い切り、ホッとしたのも束の間、再びそれは届き始めた。セールスの電話に、まんまと百合子が引っかかったのだ。

「だって、お水なかったら困るじゃない」

「普通に水道水飲めるよ。このうちの水源は、なんなら名水百選に選ばれたくらいじゃない。わざわざ頼む必要ないでしょ」

「水道水なんて嫌よ、お母さん。あのお水は特別なの。体にいいんだから。あれ飲んでたから、お父さんだって長生きしたのよ。もっと早く死ぬって言われてたんだからね」

「ふうん……。でもさ、元々、お母さんは飲んでなかったよね? お父さんのために買った水だったし。だからお父さんが死んだ後、あんなに溜まってたわけで。でも元気だよね、お母さん。なんならお父さんよりも、長生きしてるじゃん」

「お母さんも飲んでたわよ」

「いやいや。飲み始めたのは、お父さんが死んでからでしょ? 私に言われて」

「そんなことないわよ。前から飲んでました」

「だから違うよね?」

「何、訳わからないこと言ってるのよ。あのお水あげたお花だって、こんなに元気なのよ」

「それもこないだあげ始めたばかりでしょ。っていうか、えっ?……もしかして、あれからもお花にこの水、あげてるの?」

「そうよ。お花もお母さんも。もう何年も、このお水なの」

百合子の記憶はかなり怪しくなっていた。とはいえ、正論で説き伏せても納得しない。人は、自分が正しいと思ったものだけを信じるからだ。

業者に解約を伝え、二度と電話を掛けてこないように念を押す電話をかけようとした。だが、百合子はそれを拒み、頑なに契約の継続を求めた。
それどころか「勝手に断ったりしても、また頼むだけよ」と、脅迫めいたことまで言い出す始末だった。

やむを得ず、湯沸かしや料理、花の水やりなどには使用せず、喉を潤したり薬を飲んだり、そのまま飲む時に限り、1週間に一箱までの購入とした。
それでも80過ぎの高齢者に必要な水分摂取量としては、十分だ。百合子は渋々応じた。

ところが、暫くすると、それでは足りないと言うのだ。
無視して放っておくと、勝手に電話をして契約の数を増やしてしまう。苦肉の策で、不足分は果歩が都度届ける、ということで落着した。

果歩の夫である孝弘は、「馬鹿じゃないか」と言った。果歩もそう思っている。
百合子のお金を百合子が好きなものに使うのだから、別にとやかく言う筋合いもない。
要らないものを買わされた挙句、呼び出される度に重い思いをして運ぶくらいなら、勝手にさせればいい。その通りだ。でも、家中が水の箱で溢れたあの光景を、果歩はもう見たくはなかった。

「重かったでしょ。ありがとう。ちょうど切れちゃってね。明後日一週間分が届くから、今日明日の分だけでも欲しかったのよ」

百合子はそう言って、冷蔵庫から冷えた『天命水』をコップに注ぎ、果歩に差し出した。

果歩は、一気にそれを飲み干すと、フーッと大きく息を吐いた。

「美味しいでしょ。やっぱり違うのよ」

果歩はそれには答えず、玄関先で尋ねたことをもう一度訊いた。

「お母さん、花壇のところ、こないだ草刈りして除草シート張ったんだけどさ。また何か植えてあるんだけど……」

「えっ、そう? お母さん知らないわよ。雑草が、風で飛んできたんじゃないの?」

「違う。あれは植えてある。何の花?」

「どれ?」

そう言うと、百合子は突っかけを履いて表へ出た。

「ああ、これ。サルビア」

「こんなのなかったよね?」

「そう? あったと思うけど」

「ううん。なかった。だってこれ、明らかに上から挿し木してるよね? シート突き破って」

「そうかしら」

「これ、どうしたの?」

「どうしたって?」

「お店で買ってきたの?」

「ううん。買ったりしないわよ。こないだ散歩してたら、道端に咲いてたから」

「その枝を切ってきたってこと?」

「うん。鋏なんかじゃないわよ。手でね」

「それってホントに道端? またよその家の花、泥棒してきたんじゃないよね?」

「花泥棒は泥棒じゃないのよ」

「何を訳わかんないこと言ってんの。花だろうと何だろうと、よその家のものを採ったら、全部泥棒なの」

「違うわよ。アンタは何もわかってない」

実家のことで、果歩を悩ませているのは、天命水だけではなかった。

百合子には、他で咲いている花を盗む癖があった。
といっても、植木鉢ごと取ったりするのではなく、手折ってくるのだ。
そして、それらを庭にある花壇に挿し木する。

花壇は元々、和成が家庭菜園として作ったもので、高さ20センチくらいのコンクリートブロックで仕切られた、幅は3メートル、長さは7メートルほどの大きさがあった。まだ土の入る前のそのコンクリートの囲いを見て、子どもだった果歩は「家にプールができる」と思った。
だからその囲いが、水で満たされるではなく、肥料の混ざった黒っぽい土で埋められるのを見て、心底がっかりしたのだった。

和成が病いに倒れ、管理する人のいなくなった菜園は、すぐに草で覆われた。

果歩は、雑草のプールのようになった花壇を見るのが嫌だった。
それでなくても雑草は、庭のあちこちに、隙間とあらば侵入する。刈っても刈ってもなくならない。

だから何もしない百合子に代わって、果歩が除草剤を撒いた。
そのことを知った病床の和成は烈火のごとく怒った。「畑にそんなもの撒いたら、もう野菜を作れないじゃないか」。
和成が畑仕事に復活できる見込みはない。だとしたら、一体誰が作るというのだろう。

でもそれから間もなくして、和成は死んだ。
果歩は、自分のせいで父親が死んだように思った。そして和成の死後、雑草のプールに、百合子の戦利品が植えられるようになった。

「ここ、草茫々ね。除草剤を撒けばいいんじゃない?」と百合子が言った。

「えっ、だってこれ畑でしょ? お父さんが生きてる時に一度撒いたけど、あの時、すごく怒ってたじゃん、お父さん」

「だって野菜なんて、もうここで作ってないじゃない」

「まあ、そうだけど」

「ここの草取り、大変なのよ。他の所に比べて土が柔らかいから、サンダルが沈んでやりにくいのよ。足、土だらけになっちゃう」

「お母さん、草刈りしてるんだ」

「してるわよ」

「へえ……。でもそんなの撒いたら、お母さんの採ってきたこの花たちも枯れちゃうけど、いいの?」

「お母さんの花?」

「あるでしょ。いろいろ」

「そんなのないから平気よ」

「えーっ。このサルビアだってそうじゃないの?」

「サルビア? ……ああ、これのこと?」

「そうよ。お母さんがどっかから盗んできた、この花」

「盗んだなんて……。そんな人聞きの悪い言い方、しないで。お花はね、茎の一つぐらい手折ってきても、問題ないの。そういうもの」

「誰が決めたのよ。そんなこと」

「そんなこと言うなら言うけど、お母さんのお水、アンタ持ってっちゃってるじゃない」

果歩は驚いて百合子の顔を見た。

「……何言ってるの? お母さんが買いすぎちゃうから、私が自分で買って、わざわざ持ってきてるんでしょう。こうして足りない分。毎回、重い思いして」

「ふーん。そう? この家から箱で持ってったこと、ない? 孝弘さんの車に乗せて」

「それは、お父さんの一周忌の前、家中に箱が溢れてた時でしょ? あんまり多すぎてなかなか片付かないから、協力しただけじゃない。消費期限もあるし」

「でも、持ってったことには変わらないわ。お母さんのこと泥棒って言うなら、アンタのそれも泥棒だから」

果歩はポケットからスマホを取り出し、その場で「畑 強力除草剤」と検索し、一番強そうな名前の緑の液体を注文した。

(作:大日向峰歩)

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