数年前にどこかの県知事が「女子高校生にサイン・コサインを教えて何になる」と言う意味の発言をして顰蹙を買ったことがある。
この知事は男性だから、おそらく日々の仕事や生活に三角関数をおおいに活用しておられるものと思われる。
さて、男女の別はこの際措こう。学校で数学を勉強することに、どんな意味があるのだろうか。「数学なんて、役に立ったことがない」と思っている人は、男女を問わずかなり多いのではないだろうか。
数学だけではない。学校を出たあとの実生活で、古文が役に立つのか、化学が役に立つのか、世界史が役に立つのか、と言い出すと、学校のすべての科目が不要にも思える。最近新聞などで、「ビジネスマンがヨーロッパに行って仕事をするときに、世界史や古典の知識がないと会話に困る」などと言う意見を読むことがあるが、欧米で商取引をする一握りのビジネスマンの知的な雑談のために学習指導要領があるわけでもあるまい。
このことを考えると、私は、高校時代の一人の数学の先生の口癖を思い出す。
こんな台詞だ。
「私は、数学を教えているんじゃありません。数学の勉強の仕方を教えているんです。数学が勉強したい人は、大学に行ってから勉強してください。」
勉強の仕方。結局のところ、中等教育の意味というのは、これに尽きるのではないだろうか。問題にぶつかったときに、それにどう取り組むか。問題解決の基本スキルを身につける。そのためには、基本的には何をやっても良いのだろう。ラグビーの戦術を考えても、将棋をやっても良いだろう。しかしまあ、学校のカリキュラムということを考えると、伝統的に教育に用いられていた学科に一日の長があるのだろう。
純粋に論理的思考力を養うのには、数学が適しているし、論理と現実世界の対応を学ぶには、物理が適しているだろう。(なぜ冷蔵庫は冷えるのか? なぜバイクでカーブを曲がるときに車体を倒さないといけないのか?)
かっちりと論理的に考えるには、この世界には未知の変数が多すぎるんだよ、ということを教えるのが生物だ。訳のわからない人間の営みの中にも、わずかばかりの論理性、あるいは因果関係を見つけ出せるんだよ、と教えるのが歴史ではないだろうか。
英語だって、べつに海外旅行をするときに便利だから勉強するというだけではないだろう。日本語とは全く異なる論理とルールを持った言語がある(形式主語ってなんだ? どうして語順が変わると意味が変わるんだ?)ということを理解し、思考の幅を広げるのが、英語学習の最大の意味だろう。
もちろん、中学高校で学んだことが、実生活で役に立つこともある。しかし、人生という冒険旅行に、何が役立つかなんて予めわかりはしない。ならば、手当たり次第知識を身につけておくしかないだろう。
先日、仕事用にある道具を設計した(上写真参照)。アクリルのブロックを、写真のように金属の角棒に乗せ、ガタツキがないようにしなければならない。アクリルブロックに掘る溝(写真 赤矢印)の幅と深さをどうすればいいか?
しばらく考えて、「あっ」と思った。「直角三角形の短辺の長さの二乗の和は、斜辺の長さの二乗に等しい。」
生まれて初めて、ピタゴラスの定理が役に立った瞬間だった。
(by みやち)
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