【 貞子デッサン 】
ピエールの依頼に私は応じることにした。
「いいですよ」
私は机上のスケッチブックを自分の側に戻した。向きを変えて数枚めくり、まだ描いていないページを開いた。リュックから色鉛筆のケースを出した。100均で買ったプラスチックの半透明ケースなのだが、とにかく丈夫だし(ホルダーつきの)色鉛筆がざっと50本は入れることができる。
「すごい。全部の色鉛筆にホルダーがついてるのね」
「そうです。新しく買った色鉛筆にはすぐにホルダーをつけます」
「短くなるのがそんなに嫌なの?」
これには笑った。わりと率直な質問をぶつけてくる女性だな、と思った。
「もちろん嫌ですよ。でもそれだけの理由じゃない」
それはたわいない私的な理由だったし、そんなことを誰かに説明したことなど一度もなかった。しかし貞子には説明してもいいと思った。
端的に言えば、ホルダーをつけた色鉛筆は(つけないよりも)微妙に重くなる。私はその重さを愛していた。さらに言えば、ホルダーをつけない色鉛筆は削ることによってどんどん軽くなっていくが、ホルダーをつけておけば、ある程度の長さも重さも維持できる。
「愛用の画材に対するこだわり、とでも言いますかね。制作中は余計なことに心を向けたくないのです。……あ、この色鉛筆、もうこんなに短いのか、また買わなくちゃ……なんて現実的なことを考えるのがイヤなんです」

(その時は気がついていなかったが)私は多分に饒舌になっていた。この異国に降り立って以来、なにを感じてもそれを人に伝えられないというもどかしさを一気に解消するような快感を感じていた。言葉を自由に操って自分の考えや気持ちを人に伝える。100%伝えることは無理だとわかっていても、説明したい自分がいて、真剣に聞いてくれる人がいる。そんな当たり前のことをありがたいと感じるなど、出国前にはまずありえないことだった。それに貞子は聞き上手だった。もちろん彼女にとって興味のあることだから真剣に聞いてくれたのだろうが、私の説明に感心して聞いているということがはっきりとわかった。
しかしすぐ傍にいたピエールには、そうはいかない。彼はなにか早口で貞子に言った。彼女は笑った。
「いくら支払えばいいか、聞いてくれと言ってるわ」
これには笑った。思わず「あんたと一緒にするな」という目でピエールを見た。
「いりません。声をかけていただいた御礼だと伝えてください」
私は「デッサンモード」にスイッチを入れた。私の方に真正面を向いていた貞子に注文をつけて、椅子を動かして、少し斜めに座っていただいた。
彼女を観察しながらとりあえず5色を選んだ。これは私の制作流儀だ。まずはその人物の第1印象で5色を選ぶ。女性であればそのファッションを見て選ぶこともあり、またペンダントやブローチやネイルデザインを見て選ぶこともある。
腕時計を外して机上に置いた。
「20分で描きます。20分、じっとしていられますか?」
「いいわよ」
私は左手のこぶしを彼女の前に出した。
「なんとなく、ぼうっと、リラックスして、このこぶしを見ていただけますか?」
これもまた私が人物を前にして20分デッサンするときの流儀である。
人によっては20分モデルになることは承知したものの、「目のやり場に困る」というか、体は(我慢して)じっと動かさないものの、あちこち視線を動かす人がいる。私の経験では女性にそれが多い。やはり心中を様々な不安や好奇心がよぎるからだろう。
これは描き手にとっては少々困る。というのもモデルの視線が動くと、描き手の観察眼も思わずその視線が向かう先に興味が走ってしまうからだ。
そこで前もってモデルに注文をつけることにしている。
私はこぶしをゆっくりと移動させながら貞子の表情を観察した。
この作戦が有効だと思うのは、じつは以下のような理由がある。
(1)モデルの視線を誘導することにより、モデルをリラックスさせる。
(2)モデルの視線を(私の)こぶしに釘付けにすることにより、私の方はモデルと視線を合わせることなくモデルを観察できる。
(3)モデルの視線を真正面ではなくやや下方に向かわせることにより、(モデルにとって)楽な視線方向に誘導できる。
(人間の視線はゆるやかに下方に向かう方向が最もリラックスできると聞いたことがある)
(4)蛇足かもしれないが、さらにもうひとつ理由がある。
「あ、この視線がいいな」と直感で感じることがある。そのような時は間髪入れず「あ、いいですね。いい雰囲気です」とほめる。すると(不思議なほどに)モデルはリラックスする。やはり人間は、どんな些細なことでも、褒められるとうれしいものなのだ。
私は制作を開始した。貞子はいい感じでリラックスしていたが、ちょっと困ったのはピエールだった。
この男は椅子を持ってぐるっと回ってきて、私のすぐ横に座った。それはいいのだが、まるで肩を寄せ合うようにして私にくっついてきた。間近でデッサンを見たいという一心なのだろうが、これには閉口した。
【 つづく 】

