【 テルトル広場 】
Anvers(アンヴェール)駅で下車。サクレ・クール寺院に行く人はみなここで降りる。下車した私の周囲に日本人はいなかったが、大半は観光客といった感じだ。10人ほどの白人団体さんもいる。少し離れた後から、その団体さんを尾行するようにして着いていった。きっとサクレ・クール寺院に行くのだろうと思ったからだ。
目指すテルトル広場は、サクレ・クール寺院の裏手にあった。なんとなく想像していたよりもずっとこじんまりとした、石畳の小さな広場だ。色とりどりのパラソルが立っている。その下でイーゼルを立てて描いている画家が、いるわいるわ。肩が触れるようにして密集している。スケッチブック片手に歩いている画家もいる。全部でざっと50人はいるだろうか。もっといるかもしれない。確かにこんな場所は、日本じゃちょっとお目にかかれない。
制作中の絵や「私はこんな画風です」といった額装サンプル作品をざっと見て回った。偉そうなことは言えないが、絵のレベルはピンキリだ。プロもアマもゴチャ混ぜといった感じだ。画材も画風もじつに様々だ。油彩、水彩、鉛筆、木炭、ハードパステル、マーカーによる似顔絵もある。御婦人を前に座らせてピカソ風に描いている画家もいる。その他、ルノアール風、マリー・ローランサン風、ゴッホ風、ゴーギャン風。
「浮世絵風、なんてのがあったら絶対にウケると思うんだけどな」などと思いつつ楽しんで巡り歩いた。この国にひとりで降り立ってから「会話ができない」というコンプレックスを抱いてずっと緊張してきたが、ここに来て初めて心から「楽しい!」という気分を味わった。
「……それにしても」と改めて思った。人物画の奥は深い。この広場に集合した全作品に共通しているのはとにかく「モデルを描く」ということだ。まあしかし、その表現にはなんと多種多様の方法があるものだと改めて感心する。

ひとりの油彩画家が制作している様子を眺めていると、背後からポンと肩を軽くたたかれた。振り返ると、ベレーを被った「いかにも画家」が私に手を差し出してきた。年齢は私と変わらないように思われた。ほとんど反射的に握手すると、やや早口でなにかを説明しつつF4のスケッチブックを広げてみせた。色鉛筆の黒で描いたクロッキーだった。ほとんどの作品は黒のみで速写していたが、たまに(ちょっと色を添えたくなったのか)ピンクやブルーバイオレットのタッチが追加された作品もあった。全体に達者なクロッキーで、いかにもスピーディーに描いたことがよくわかる作品だ。おそらく20分ぐらいで一気に描いたものだろう。しかし描かれているのは頭部と胸のあたりだけで、手は描かれていない。真横から描いた若い女性もあったが、やはり頭部と胸だけだ。なるほどこれなら20分で楽勝だ。
そのようなことを思っていると、彼は私にチラチラと視線を走らせて、立ったままクロッキーを始めた。
「ははあ」と思った。セーヌ河畔の露店で出会った佳代子さんが言ってた「ウロウロ歩きながら勝手にクロッキーをしている連中」のひとりかもしれない。さてどうする?
私は軽く手を出して彼の制作を止めた。リュックを下ろして自分のスケッチブックを出した。彼と同じF4サイズだ。こちらに来てから描いたクロッキーを数点見せた。彼は両手を大きく広げて「驚いた!」といったポーズを示し、再び握手を求め、あっという間に去っていった。立ち去り方も「さすがは」と思わせるような誠に迅速な消え方だった。
【 貞 子 】
ところが(意外なことに)この画家との縁はこれで終わりではなかった。
1時間ほどあちこち歩き回り、ちょっと休みたくなった。周囲を見ると、この広場を囲むようにして喫茶店が並んでいた。例によってどの喫茶店も盛大に円卓を店の前に並べている。
さほど混み合っていない店を選び、イーゼルに立てかけたメニューを見た。カフェオレ(16フラン/¥320)。うん、これをいただこう。円卓のひとつを占領して、のんびりとこの広場のスケッチも描くのも悪くない。
店外の円卓に座った。ギャルソンにカフェオレをオーダーした。深緑の色鉛筆だけを使って広場のスケッチを開始した。
10分ほどでたちまち集中したときだった。私の円卓の前にフッと影がさした。見上げるとふたりが立っていた。ひとりは先ほどの画家。もうひとりは一見して東洋人の(やや肥満傾向のある)年配の女性だった。
「あなた、日本人ね」
きれいな日本語だった。女性は60歳前後かと思われたが、意外なほどきれいで若々しい声だった。
「そうです」
彼女の名前をかりに貞子としよう。貞子と私は握手して名乗りあった。私がいつ入国したのかを聞き、たったそれだけのことで、彼女は(なにかに感動したかのように)席を立って、両手を広げた。私も席を立った。我々は円卓の脇でハグした。
「ようこそパリへ」と彼女は私の耳元でささやいた。たったそれだけのことで、私は彼女の体温を感じながら涙ぐみそうになった。彼女の香水は強烈な香りではなく上品な柑橘系で、私はますます好感をもった。
「ピエールが言うには‥…」彼女は(私とのハグが終わると)脇の画家を親指で示した。「あなたの作品がとてもいいから、ちょっと見に来いと」
私の返事を待つまでもなく、ふたりは私の前に椅子を並べた。
「ちょっと強引だな」と苦笑気分ではあったが、日本語で普通に会話できることが嬉しかった。私はスケッチブックを一旦閉じ、彼らの方に向き直して押し出した。渡航する直前から使っていたスケッチブックだったので、10点ほどのクロッキーやデッサンがあるはずだった。
【 つづく 】

