「盆栽の定義B」「庭ねこ、盆栽フクロウクイズに挑む」-盆栽入門前<4> 

こちらの記事は「盆栽入門前」:盆栽初心者による、盆栽入門前後のモヤモヤと驚きを共有する盆栽イラストコラム の4回目です 連載紹介の第0回はこちら、バックナンバー一覧はこちらです。
盆栽フクロウとアール・デコ調の門

盆栽の世界へようこそ illustration by Ukyo SAITO ©斎藤雨梟

みなさまこんにちは。前回は、色々な鉢植えを見て、これは盆栽、これは盆栽じゃない、と分類し、その判定基準は何だろうか? とモヤモヤするという「盆栽を探せ!」ゲームをご提案しましたが、今回は庭ねこと一緒に、もう一度盆栽を探すゲームをしてみましょう。

庭ねこ、盆栽フクロウクイズに挑む

夢に出るほど盆栽(と盆栽フクロウ)が気になっている様子です。

さて、盆栽フクロウが(庭ねこの夢の中で)出したクイズ、あなたの答は何番と何番ですか。

庭ねこは1〜5全部が盆栽だと感じているようです。さて、正解は……?

「現代の」盆栽的な正解

私は、1、2、3、5の四つが盆栽で、4は何かがちょっと違うのではないかと思いました。

私の所感はさておき、気になる正解の発表です。

あくまでも現代の盆栽の一般的な定義、つまり先週紹介したこちらの定義

植物を鉢に植え、小さな鉢の中に自然の木の姿やそれが育った風景を表現し、幹、枝ぶり、葉、根などを総合的に観賞する目的で育て、手入れをし、仕立てるもの。

(盆栽の定義A)

に従いますと、盆栽は2番のみ、ということになるらしいのです。(詳細はのちほど)

でも、読んでいるあなたにお聞きしたい。もし盆栽にあまり詳しくないなら特に、お聞きしたい。

他のも、十分に盆栽っぽくないでしょうか?

先ほど、「現代の」盆栽の定義なんて言葉をさらりと使いましたが、それは何だ、盆栽って日本の伝統文化じゃないのか、と思ったあなたは鋭い。盆栽って、いつからあるんでしょう?

樹齢五百年を超える盆栽が現存していると聞くと、盆栽は五百年前から今のようなスタイルで続いていると思ってしまいませんか。私は思いました。でもこれが、違うらしいのです。

盆栽は千年以上の歴史があるとか、中国の「盆景」が唐の時代に日本に入ってきたとか、よく書いてありますので、何時代のどういう文献にどういう記載があるかくらい、調べれば速攻でわかるに違いない、と思った私は、まずはチョチョイと検索したのですが、これが驚くほどわかりません。ハッキリしたことがあまり書かれていないのです。そこで本を探して調べてみました。

結果、「よくわかっていない」ことがわかったばかりか面白くて止まらなくなりそうでしたので、次回以降詳しく紹介したいのですが、今はざっくりと、日本における盆栽の「見た目」の変遷を説明します。(参考文献一覧を本記事末尾に記します)

(ちなみに「現代の」盆栽の流れは明治時代の中期以降から。「現代」という書き方はしましたが100年以上の伝統があります)

時代ごとの 盆栽っぽいもの

日本における「盆栽っぽいもの」の見た目は随分と変化してきたようです。なぜ「盆栽っぽいもの」と曖昧に呼ぶかというと、「盆栽」という呼び方が比較的新しいもので、昔は(時代によっても違うらしいですが)「盆景」「盆山」「盆石」「鉢の木」「作りの松」などと呼ばれていたからです。

おおざっぱにまとめると以下のようになります。

「盆栽っぽいもの」の見た目の歴史

(i)平安末期〜:多分この頃に中国から「盆栽っぽい鉢植え」が入ってきた。美しい鉢に植えることがけっこう大事らしい。石で自然の山などの地形を表現し、そこに木を植え込んだものも多く(これは中国式「盆景」のメジャーなスタイル)、石もたいへん重要な要素。姿がどんなだったか資料は少ないが、絵巻物に描かれた姿を見ると、木は比較的さらりと素朴な形に植えてある。

(ii)江戸中期〜:石に植え込んだスタイルもあるが、どちらかというと植えられた木が主役に。人工的に枝を曲げる技術が発達し、技を競っていた。「盆栽っぽいもの」が庶民に広がり、浮世絵にも描かれている。たしかにクネクネしているものが目につく。

(iii)明治中期〜現代:植えられた木が主役。自然の造形、自然の景色を鉢の中にミニチュア的に作り出すというコンセプトの盆栽が確立。18世紀に登場した「盆栽」と書いて音読みで「ボンサイ」と呼ぶ呼称もすっかり定着する。

大変お待たせいたしました。盆栽フクロウの盆栽クイズに戻ります。
種明かしをしますと、
1、3、5 は、現代風ではない「盆栽っぽいもの」です(つまり上記の(i)(ii)の時代のもの)。
それぞれ古い時代の絵をモデルに描きました。
2が現代の盆栽っぽい盆栽。
4は盆栽っぽいけどちょっと違う気もする観葉植物です。
(それぞれ次回詳しくご紹介します、どうぞお楽しみに)
でも今日の主張はこれ。
1、3、5 も十分に盆栽っぽくはないでしょうか?

1番。盆栽っぽいです。

3番。かなりの盆栽っぷり

5番。これが盆栽でなくて何なのだ?

ここで一応お断りしておくと、盆栽には厳密な定義や流派がなく自由なものだと多くの専門家も言っていますし、1、3、5を盆栽と呼んでも、「こんなものは、断じて盆栽ではぬゎぁぁぁぁぁい!!」と怒られたりはしないと思います。また、盆栽の研究家・愛好家として知られる丸島秀夫氏は『日本盆栽盆石史孝』の中で、南北朝時代の絵巻『慕帰絵詞』(1351年作)に描かれた盆栽(っぽい鉢植え)のことを「すばらしい絵」「根張り、立上り、こけ具合、枝の出方など現代の盆栽の樹形と変わらない」と激賞しているので、昔の盆栽(っぽいもの)の中にも現代の盆栽の要件を満たすものがあるようです。昔の絵を参考に盆栽フクロウクイズに登場させた「盆栽っぽいもの」たちも、たまたま現代の盆栽と変わらない姿をしていた可能性もあります。

でも、わかるか、そんなの。
こちとらシロウトです。

「昔の盆栽は今の盆栽とはだいぶ違った」というのなら、現代盆栽的な「盆栽らしさ」を備えているのは2番だけのはず。

ですが私には、2はもちろん、1、3、5は盆栽にしか見えないのです。

鉢植えならば何でも盆栽と思うわけではなく、事実、4番は私の中ではグレーだけれどNot盆栽です。

4番。ちょっと違うんだよなあ。

つまり、シロウトながら自分なりの「盆栽 or Not盆栽」判定眼を持っているのです。

そして、この先、現代風の盆栽の知識や技術や盆栽的審美眼・鑑定眼を身につけて、いずれ「いや〜昔はこんなこと言ってたけど2番以外はちょっと盆栽とは違うでしょ」とか何とか言い出す可能性もあるかと思うと、今のうちに書いておかねばならぬ、と少し焦ってこれをしたためております。知らないってことの素晴らしく貴重なメモリアルをここに。

あなたは何番が盆栽だと思いましたか。そしてその「盆栽 or Not盆栽 判定眼」、一体いつ、どこで身につけたのでしょう? 考えてみると不思議ではないですか。

盆栽について熱心に学んだわけでもないのに身についている判定基準とは、「これが日本的な美である」という素朴な審美眼であり、それこそがもしかすると、言葉にされることなく何百年前から引き継がれ、現代の盆栽を生んだ、日本の盆栽的風土というものではないでしょうか。

その盆栽的風土とはナニモノか? が言ってみれば私のモヤモヤの本丸と思われるので、またしつこく突き詰めて書く所存ですが、ひとまずは今回の結論は、

やはり「盆栽っぽい鉢植えが盆栽」ってことでいいのではないか?

ということです。

名前は何でも、盆栽っぽいもの

前回、現在の一般的な盆栽の定義(定義A)では表せないものを、定義Bが表している、などと書きました。改めてAとBを比較します。

盆栽の定義A:植物を鉢に植え、小さな鉢の中に自然の木の姿やそれが育った風景を表現し、幹、枝ぶり、葉、根などを総合的に観賞する目的で育て、手入れをし、仕立てるもの。

盆栽の定義B:「何となく盆栽っぽい」と感じさせる何かがある鉢植えのこと。

盆栽の定義Bはとにかくデタラメです。「どうしてダメなの?」「ダメだからダメ!」というような、自己循環論法です。つまり不完全さが明らかな定義なのです。

それに対してAはまともでちゃんとしています。否定しようとはまったく思いません。ですがむしろ、「定義Aにも定義B的な不完全さがある。それはあって当然なものなのだ」と言いたいのです。

もう少し詳しく書きます。
定義Aは、私たちが現代人で、現代の日本の一般的な価値観を共有しているから具体的なイメージがわき、納得できる説明ではないでしょうか。「自然の木の姿」をどう捉えるかは人それぞれですし、「それが育った風景」は時とともに変わるもの。過去や未来へ世界中へと広げた途端、この定義A、不完全さが見えてきて心許なくなってきます。

盆栽とは、木という「自然」と、手をかける「作為」のはざまと向き合うものだと思います。そこにどうしても表れる「自然観」とは人により文化により時代により揺れ動いて当然なもの、完全に整って閉じた定義などできないものです。

人間が手を入れたものは「不自然」と言われるけれど人間もまた自然の一部だ、という理屈はよくあります。一方で人間が心地よく感じる「自然」はたいていは「整えられ制御された不自然な自然」だ、ともよく聞きます。どっちにも説得力があります。人間ゼロの自然を人間は体験できないから出てくるモヤモヤたちです。何が正しいとは言えません。

「自然観」とは人が「自然ってこういうもの」と夢見て憧れたり、恐れて立ち向かおうとする脳内イメージ。これもまた何が正しいと言えるわけもなく、きっとそれらも不自然でいて、なおかつ人間らしい、自然なものなのでしょう。

さてこれから強引なことを言います。

改めて見ると、「盆栽っぽいものが盆栽」というでたらめな定義、まさに「自然観」の不完全さを体現していると思いませんか?
しかも、過去にも未来にも開かれています。

時代によって変わってきた「木を鉢に植える」という楽しみ。でも長い時間を通して共通する、特に日本やアジアという地域に共通する何かが「盆栽」を作ってきたからこそ、昔の「盆栽っぽいもの」もまた、シロウトの私の目に「盆栽」に見えるのではないでしょうか。明治中期から続く日本の盆栽の伝統は素晴らしいものですが、それをもっと大きく包含する「盆栽っぽいもの」があるはずで、そのもっと大きなものを「盆栽」と呼んでしまってもいいんじゃないか、というのが定義Bのこころです。このあからさまに不完全な定義そのものが「盆栽っぽい」、だから好き。それが私のこころであります。

参考文献:

『盆栽の誕生』依田徹 大修館書店 2014
『盆栽考』稲城信子 (『造り物の文化史』 福原敏男・笹原亮二編 勉誠出版 2014 に収録)
『盆栽の宇宙誌』 ロルフ・スタン せりか書房 1985
『日本盆栽盆石史考』丸島秀夫 講談社 1982
『考証盆栽史大綱』岩佐亮二  千葉大学園芸学部特別報告 = The transactions of Faculty of Horticulture, Chiba University 13号 1975

今日の盆栽メモ:ドキドキワクワク盆栽本

参考文献に挙げた中で、現在最も入手しやすく読みやすい、この本をちょこっと紹介したい。

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『盆栽の誕生』依田徹著

表紙の絵がまずカッコイイのである。これは「盆栽図屏風」という江戸時代初期の屏風の右隻部分から取ったもの。屏風に盆栽ばかりがボン、ボン、と(盆栽だけに)配置してあるという度肝を抜かれるステキな屏風でぜひ本物を見てみたい。出光美術館所蔵、作者不詳。

本の中身も、「へえ〜!」と何度叫んだかわからない盆栽話てんこ盛りのドキドキワクワク本である。盆栽は趣味として大人気なだけあって盆栽の作り方育て方などのガイド本はたくさんあるが、盆栽の歴史の本、しかも一般向けのわかりやすい本はとても貴重。この本は、日本に「盆栽っぽいもの」がやってきた中世の話にはあまりふれず、近世以降、現代の「盆栽」が誕生するまでの流れを詳しく解説しているところが特徴。盆栽ファンだけでなく、「ところで盆栽って一体何なのさ?」とちょっと思いついちゃった人も楽しめる本で、巻末には盆栽の鑑賞ガイドと、盆栽が見られる盆栽展・美術館・庭園ガイドつき。


最後までおつきあいありがとうございます。
次回「盆栽 or Not盆栽」でぜひまた、お会いしましょう。

(by 斎藤雨梟)

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