ジョーは目を開けると、床に散らばる本の間に丸めていた体をにゅーっと伸ばした。時刻は午後9時。いい頃合いだ。
いつものように寝ぼけまなこのまま、タバコに火をつける。深く吸うと、少し頭がはっきりした。
煙を吐き出し、タバコを挟んだ指を見ると、何かおかしな感じがした。が、そのときはそれが何なのか、まだわからなかった。
一本吸い終わるとほぼ目が覚めたので、出かけることにした。粗大ゴミの山に偽装した隠れ家を出て、埃っぽい構造躯体の間をすり抜け、夜の街路に降り立つ。
立体都市の中層は複雑な構造をしている。
打ち捨てられて廃墟になった下層や、金持ちが住むツルツルに整った上層と違って、雑多な住民が生活を営む中層は、その住民たちと同じように街自体が息をし、活発に成長し、あるいは生まれ変わっている。つまり、無数の小さな単位がそれぞれ勝手に新陳代謝を繰り返しているのだ。
ゴミ漁りには少し時間が早い。酒を出す店がまだ開いているので、通りのそこかしこに気怠げなざわめきの塊がある。
ジョーは、街路に面した店や住宅の軒の上をしなやかな足取りで歩いていった。小さな店の扉からどやどやと出てくる勤め人の集団、千鳥足で歩きながら職場の愚痴を喚き立てる者、街灯から離れた暗がりで一人で吐いている学生。そういった光景を見ていると、ジョーの中に根拠のない優越感が湧き上がってきた。あの連中より俺はずっと自由だ。俺の隠れ家は立体都市一の城だ。
ふと気配を感じて前を向くと、軒の端から茶トラの猫がヌッと顔を出した。鉢合わせだったらしく、ギョッとして身をすくめている。この前の乱闘騒ぎの時に見たような気がする顔だ。
「どけよ。俺はここを歩きたいんだ」
いつになく気が大きくなっているジョーは、そう言って凄んだ。
茶トラは、申し訳のように「うー」と唸っているが、完全に腰が引けている。
もっと大きな声を出して威嚇してやろうか、そうジョーが思った時、相手が突然「うわあっ」と悲鳴をあげたので、こちらがビクッとしてしまった。
「なんだ、脅かすなよ。急に大声出しやがって。俺、何もしてねえだろ」
茶トラは化け物でも見たように怯えてジョーを指さした。
「あんた、あんたの、手……」
「?」
何のことかわからず、ジョーは反射的に自分の手を見た。そして、茶トラと同じように「うわあっ」と叫んだ。
「俺の、手……」
ジョーの両手首から先が、クラゲのように透き通っていたのだ。片方で片方に触れると、ピリッと電気が走ったような痛みを感じた。
あっけにとられたまま立ち尽くしていると、首の後ろに重い衝撃を感じた。
ジョーは意識を失ってその場に倒れ伏した。
* * *
目が覚めた時、ジョーは快適な布団の中にいた。
首の後ろがズキっと痛んで、自分が襲われたことを思い出した。それから、襲われる前にもっと恐ろしいことがあったのを思い出し、布団から両手を出して見た。
……夢ではなかった。爪も毛も肉球も透明で、クラゲのようにぶよぶよとした質感になっている。前に見た時よりも、透明な部分は肩の方へ広がっているようだ。
部屋の扉がガチャリとあいて、茶トラの猫が入ってきた。軒の上で鉢合わせして怯えていた猫によく似ているが、もっと体格が良い。きっとあの猫の兄だろう。茶トラはジョーのそばへ来ると口を開いた。
「手荒な真似をしてすまなかった。気分はどうだ」
「謝るぐらいなら殴るんじゃねえ。首が痛い」
「フン。優しく『来い』と言ったって、貴様は来やしなかっただろう。立てるか?」
「俺をどうするつもりだ」
「その両手がどうしてそうなったか知りたくないか」
「……治し方がわからないなら原因を知ったってしょうがねえな」
そうは言ったものの、ジョーは強い興味を隠すことができなかった。自分の体に起きた異変について、こいつは何か知っているのだ。
ジョーの心を見透かしたように、茶トラは笑った。
「ここで強がっても意味ないぜ。来な」
そう言って部屋を出て行こうとする茶トラに、ジョーはついていくしかなかった。
(第六話へ続く)
(by 芳納珪)
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