〈赤ワシ探偵シリーズ2〉ニフェ・アテス第二十八話「大地の歌(最終回)」

挿絵:服部奈々子

挿絵:服部奈々子

ノックをすると、少し間をおいて返事があった。

「どなた?」

たったひとことで、心の中の悪いものがすべて浄化されるような、神々しい美声である。
私が名乗ると、声は「まあ」と親しげな響きを帯び、ドアが開いた。
私は言葉を失って立ち尽くした。

輝くばかりの美しさは、舞台用のドレスとメイクのおかげだけではあるまい。
裏町の寂しい部屋にいた、人生に疲れた女性は仮の姿で、こちらが本来の彼女なのだ。

カテリーナ・トトノフスカヤ。稀代の歌手は、立っているだけでスターの威光を煌々と放っている。

「どうぞ、お入りください」

カテリーナは突っ立っている私に声をかけ、ドアをもう少し引いて促した。
私は我に返って中折れ帽をとり、タキシードの胸に当てた。

「こんばんは。開演前に不躾かとも思いましたが、ひとことだけご挨拶をと思いまして。お言葉に甘えて失礼します……おや?」

せっかくのとりすました口上が、最後の「おや」で素に戻ってしまった。
控え室の奥にいるのは、紛れもなくジョーだ。私と同じく、タキシードを着てめかしこんでいる。
近所だから連れ立っていこうと誘ったら「ロビーで待ち合わせでお願いします」と言ってきたのは、こういうことだったのか。

「どうも、お邪魔をしてしまったようですな」
「いいんですのよ。私の出番はあとの方ですし、少しおしゃべりした方が気持ちもほぐれますわ」

私が「お邪魔」と言ったのはジョーがいたことに対してだったのだが、開演前の訪問のことを言ったように受け答えするのは、単なる勘違いか、それとも……。
テーブルの上の茶菓を手早く整えてから立ち去ろうとするカテリーナの手を、ジョーがそっと押さえた。カテリーナが振り返り、二人の視線が合った。ジョーが口を開いた。

「お茶は私が淹れましょう。座っていてください」
「ありがとう。お願いするわ」

二人の手が、名残惜しそうに離れた。流しの方へ行くジョーの背中を見ていたカテリーナは、しばらくしてからこちらを向いた。

「あら、どうされました?」

彼女は私の顔を見て、可笑しそうに言った。私はハッとして、開けっ放しになっていたくちばしを閉じた。

「いや、このたびはまことにおめでとうございます。『ニフェ・アテス』の初演をこのような素晴らしい形で実現できたことを、ご主人もあちら側でさぞかし喜んでおられることでしょう」
「本当に、何度お礼を申し上げても足りませんわ。トキ市でもっとも歴史のあるこのトキ文化会館で、トキ交響楽団の演奏で、しかも自分がそこに歌手として参加できるなんて。いまだに夢を見ているようです」
「これは現実ですよ。アレキセイくんの演奏も楽しみですな。フルートと言えばオーケストラの花形、しかもソロパートがあるのでしょう?」

カテリーナは眉をひそめて困り顔を装ったが、口元の笑みは隠せない。

「お恥ずかしいですわ。みなさんにご迷惑をおかけしていないかと、もう心配でたまりませんでしたのよ」
「なにをおっしゃいます。指揮者が実力を認めて是非にと起用したと聞いておりますよ」

そこへ、ジョーがお茶を持って来た。三人そろってゆっくり話すのは、私とジョーが初めてカテリーナを訪問した時以来である。

なにしろ、目の回るような忙しさだったのだ。

半年前、私が「月世界中華そば」の店の床の上で目をさますと、アレキセイがテーブルに突っ伏すようにして一心不乱に楽譜を書き続けていた。書き終えると、おかみさんが用意したまかないのチャーハンをかきこみ、空になったどんぶりとレンゲを手に持ったまま、ことんと寝てしまった。

私はアレキセイとカテリーナ、それからジョーと相談して、完成した楽譜を顔見知りの新聞記者に持ち込んだ。その曲が真の『ニフェ・アテス』である証拠として、トトノフスキイ氏の研究ノートの一部と、アレキセイの下層探検の体験談の口述筆記を添えた。口述には、十六番街でもっとも精神感応力のある占いねずみを立会わせ、一切嘘を言っていないという証明書を書いてもらった。ただし体験談の中では、古代銀猫人の末裔が村を作って暮らしている点には触れていない。

記者はスクープ記事を書き、『ニフェ・アテス』発見のニュースは、不遇の音楽史研究者アレキセイ・トトノフスキイ氏と息子アレキセイの親子二代に渡る業績として、立体都市全域に知れ渡った。

その後の追加取材で、音楽アカデミーが少し前に発覚した不正会計疑惑から世間の目をそらすために『ニフェ・アテス』を発表しようと目論んでいたことがわかった。幻の古代音楽を発見したという触れ込みで、大地信仰とは関係ない曲として。

『ニフェ・アテス』の初演には、多くの企業がスポンサーとして名乗りを上げた。

考古省のサラク・ギハは、発掘現場から「紛失」した四角石が無事に見つかったので、キツネ目をほとんど見えなくなるくらいに細くして喜んだ。じつはその四角石は、アレキセイの記憶を元にして私が腕のいい贋作師に作らせたものである。もともとあの四角石はアレキセイが盗んだのではないのだから、返す必要もないのだが、そのことを説明するにはレムリの存在を明かさなくてはならない。そこで、考古省から提示されていた報酬の全てを、そのままニセ四角石の代金に当てたというわけだ。いや、「ニセ」などと言うと怒られる。何しろ「本物をつくる」という触れ込みの贋作師なのだから。

サムはしばらく消息が知れなかったが、スクープ記事が出てから2ヶ月後くらいに戻ってきたという噂を聞いた。『ニフェ・アテス』を上演することが決まった直後だった。
それと同じ頃、レッドイーグル探偵社の二階の窓辺に、真夜中に訪れた客があった。男前のコウモリ人・千夜である。彼は、サムはコウモリ人たちに捕らえられたあと、武器を取り上げられ、ジョーに引っかかれた傷の治療を兼ねてしばらくコウモリ人の集落に留め置かれたこと、サムを中層階に戻れるところまで誘導したあと、銀猫人集落への道を閉ざしたこと、長老アトラやレムリをはじめとした銀猫人たちの生活に変わりはないこと——などを、こまごまと語った。

開演時間がせまり、私とジョーはカテリーナの控え室を辞した。
ロビーは、入場する観客で混み合っていた。その人混みの中から、元気のいい声があがった。

「探偵さーん! マスター!」
「おや、久しぶりだね」
「またあ、白々しい。私の会社がこの公演のスポンサーの一つだっていうことはご存知でしょう」

カメレオン人の起業家、レオネの胴には大きな丸い穴があいて、向こうの景色が見えていた。だが、彼女は平然としている。ドレスのその部分に、自分の会社の特許製品であるカメレオン生地を使用しているのだ。

「お二人はチケットを買ったの?」
「もちろん。正規の販売所で、正規の値段でね」
「言ってくれれば、うちの分をあげたのに!」
「う……それは惜しいことをした」

レオネはスポンサー用のVIP席に、私とジョーは大枚はたいて購入したS席に、それぞれついた。プログラムには、「ニフェ・アテス」の言葉の意味や大地信仰のことが、ちゃんと書いてある。

演奏者の入場がはじまり、客席に拍手が湧いた。
フルートを手にして、背筋を伸ばして歩くアレキセイを見つけ、私はいっそう拍手を大きくした。正装しているせいもあるだろうが、ずいぶん大人びて見える。隣を見ると、ジョーがこれまで見たこともない幸せそうな顔で、左右の肉球を打ち合わせていた。

『二フェ・アテス』――大地の歌が、はじまった。

挿絵:服部奈々子

挿絵:服部奈々子

(了)

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