宙に浮かんだ水の塊は、ひと抱えほどの大きさになると成長をとめた。
中心から湧き出していた水流は、しばらくは激しい勢いでぐるぐる回っていたが、やがて静かになり、水の塊は分厚いレンズのような形になって安定した。
ぼうぜんと見上げるばかりだったジョーは、ようやく言葉を発した。
「これは一体……?」
黒く長い毛を持つボス猫が重々しく言った。
「海中への入り口だ」
「なん……だと」
ジョーの全身の毛が、ぶわっと逆立った。
海に囲まれた立体都市の住人にとって、海中という言葉は恐怖の象徴だ。
海の表面ならいい。立体都市のあちこちから海は見えるし、水平線に沈む夕日を眺める文化もある。
しかし海中は、死んだ者が行くところだ。地面のない立体都市では、死者の身体は水葬されるのが通例である。
ボスは続けた。
「チエクラゲの本体は海中にある。それを探して、人体クラゲ化の治療方法をつきとめるのだ」
ジョーの目の前の水の塊は、吸い込まれそうな黒さをたたえて、しずかに浮かんでいる。しばらくぼんやりとそれを眺めていたジョーは、ボスの言葉の意味をとつぜん理解した。
「ちょっと待ってくれ。つまり、俺に海中に行けというのか」
「そうだ」
「なんで俺が」
「おまえしか行くことができないからだ。身体の一部がクラゲ化すると、海中の入り口を作り出すことができ、作った者だけがそれをくぐることができる。息子はそうやって海中に行った。そして帰ってきた」
ジョーは息を呑んで、ボスの息子が収納されたケースを見上げた。海水に浸った透明猫。彼は勇敢にも自ら海中へ行ったのだ。
「息子がチエクラゲの毒にやられ、身体のクラゲ化がはじまってから、黒蛇団の総力を結集して治療法を調べた。そしてわかったのは、大昔にチエクラゲの毒にやられた若者が、海中へ行って戻ってきて、元通り回復したということだけだった。それ以上具体的なことは何もわからなかったが、そのときすでに手足が付け根近くまでクラゲ化していた息子は、行くと言った。我々は息子に長い命綱をつけて送り出した。その後、息子は帰ってきたが……治療法を見つけることはできなかったようだ」
最後の方でボスは声を震わせた。しばらく沈黙が続いたあと、再び口を開いた。
「そんなときに、シマジがおまえを連れてきてくれた。絶望の中に一点の光が現れたようだった」
シマジというのは、傍にいる手下の茶トラの名前らしい。ボスはそこであらたまった様子になり、ジョーに向かって頭を下げた。
「頼む。海中へ行ってくれ。そして治療法を見つけてきてくれ」
黒蛇団の頭領の威厳はすっかり消え失せていた。息子を思うただの父親の姿がそこにあった。
ジョーは少し落ち着きを取り戻した。
「よしてくれ。俺は俺のことだけ考える主義だ。つまり、こういうことなんだな。海中に行けば、もしかしたら治療法がわかるかもしれない。行っても行かなくても確実にクラゲ化はすすみ、やがて……」
ボスは頭をあげ、表情を消した顔で続きを言った。
「死に至る」
狭い部屋に沈黙が降りた。
海中への入り口は、裂け目のように黒々とした深淵をのぞかせ、しずかに浮かんでいた。
(第八話へ続く)
(by 芳納珪)
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