【第一話】
『招かざる客』
(はあ……。なんでいつも一番嫌なタイミングで来るの? なにも今、それも出掛け間際に来なくたっていいのに。もし電車に乗り遅れたらどうすんのよ。それでなくたって、都会と違って、一本逃すと1時間待つっていうのに……)
さおりは、イラつきながら、もはや歩いているとは言えない速度で、徒歩30分の道のりを駅へと向かっていた。
学生の頃から、早歩きは得意だった。
田舎の子が上京してまず驚くのが、夜中まで街に人が溢れていることと、定員を遥かに超える満員電車に手品みたいに吸い込まれていく乗客と、街の人たちの歩くスピードだ。
さおり自身、前二つには心底驚いた。
夜更けなのに街から人が消えないのを見て、「今日はお祭り?」と訊き、江戸っ子を自負する友人に馬鹿にされたし、1分間隔で次々に来る電車がどれも満員で、どれだけ見送っても乗れそうな隙間がなくて、意を決して正面から突進して弾き飛ばされ、尻もちをついたこともあった。でもそのうちすぐ、夜中に人がいるのが当たり前になり、満員電車にはお尻から乗り込むことを学んだ。
だけど、歩くスピードには驚かなかった。
昔から走るのが嫌だった。
走ると、さおりの制御できないところが揺れる。とりわけ大人の男たちが、そんなさおりを見る。その眼差しが、走っていない時に向けられるものとは異なるのをなんとなく感じていた。走りたくなかった。視線を向けられたくなかった。できるだけ走らず、胸を揺らさず、かつ早く目的地に着くためには、出す脚と手の側を揃え、大股で速く歩くしかなかった。そんな変な歩き方をするくらいなら、あと5分早く家を出てくればいいのに、と友人は笑った。
でもそれができないのだから仕方ない。結果、最大限寝ても遅刻を回避する、妙な早歩きの技法だけが長けていった。
そしてその技は、都会でさらに磨かれた。
街にはライバルがたくさんいた。誰よりも早く改札を通り抜け、その先でボトルネックになる階段にいち早く辿り着き、そこを通過できれば、人混みの中に埋もれ、牛のように歩かなくて済む。一つ前の乗り換え電車に乗れ、目的地に早く着ける。
「そんなに急いで、何かいいことあるの?」
「まあ、いろいろ」
「電車が空いてるとか?」
「いや。朝は全部混んでるよね」
「早く着くって、どれくらい違うの?」
「うーん。3分、いや、5分くらいは違うかな」
「えっ。たったそれだけ?」
「うん」
「急ぐ必要、なくない?」
「でも、ギリギリ遅刻しないで済むよ」
「だから、早く行くためには早く出ればいいんだって」
不毛なループだ。
早く出たくはないけれど、早く着きたいという我儘を通そうとしているのだから、そこを正せと言われても、無理なのだ。そもそも、人は理屈通りになんて動けない。さおりが死守する5分だって、実際は人身事故やら何やらで容易に短縮されるし、実際のところは到着時間に差はなくて、結局遅刻は遅刻なのだ。わかっているけど、さおりは早く歩く。目の前に歩いている人がいたら、追い抜く。別に追い抜きたくなんてないのに。
こういうのを、社会的促進というらしい。
人は、慣れていることや簡単なことをする時に、他者がいるとその遂行が促進される。都会では徒歩という移動手段が一番身近で、一番選択される。多くの人にとって、歩くことは息をすることと同じくらい慣れ親しんだ行為だ。だから、別に抜きたくなくても、人は目の前の誰かを見ると、歩を速め、追い抜こうとする。
そういう暮らしと自分が嫌だった。
だから山に逃げた。山の中なら、歩を競う人と会うこともないし、本能に刻み込まれた闘争からも自由になれると思った。
けれども、都会の山には人が溢れていた。
日本の細くて険しい山道は、歩みの遅い人が一人いると容易に渋滞した。春や秋の行楽シーズンになると、時に、登りと下りのそれぞれの側から「こっちが先だ」的な怒号が飛び交った。自然発生的に生じた多数派のルールを、我関せずと数名が破り、秩序が乱れた集団による無理な通過で、登山道からの転落事故や無法者を咎める諍いが起きた。
登山口のホームには人が溢れ、駅に着くや否や乗り換えるバスの少ない座席をめぐり、老いも若きも猛ダッシュした。瞬発力や持久力がない老人は、登山用の杖を駐車場のゲートのように振り上げ、先行く者を制した。仁義なき戦い。そうやって乗り込んだバスに揺られ、漸く着いた登山口で、今度はトイレをめぐる争いが始まる。
とにかく人が多すぎる。一所に集まりすぎているのだ。
さおりの田舎暮らしへの憧れは、こうして溜まっていった。
(あの時、田舎に住もうなんて思ったから……。知ってたはずなのに。田舎が不便なことを。都会とはまた違う、不快適さのあることを。だからこうしてお腹が痛いのを我慢しながら、突然の経血が服を汚さないことを祈りながら、1時間に一本しかない電車に乗り遅れまいと、駅へと全力で早歩きをする羽目になっているのに)
さおりの元へ訪れたのは、月のモノ。
よりによって、絶対に遅刻できない大事な日に限って生理が来た。それも、家を出る直前に。
【第二話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第一話、いかがでしたでしょう。
お待たせしました、新連載開始です。謎めいていて不穏さや緊迫感のある書き出しがお馴染みになってきました。「潮時」は主人公・さおりの心身に関わること? と予測したみなさま、実はそれだけではないのです。この先の展開をどうぞお楽しみに。
今日初めて大日向峰歩作品を読んだという方、完結済の小説『誰かのために』 『刺繍』のバックナンバーも公開中です(第一話にリンクしていますが、続きも今なら無料公開中です)、ぜひご覧ください。
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