心を紡いで言葉にすれば 第7回:「最後の一点」の魔力

こんな話があります。

あるところに、一人の男がおりました。
ある日、男は、何のあてもなくクロなる店へ行き、棚に一つだけ残っていた鞄を見つけ、手にしていた買い物かごに入れました。
その様子を見ていた同行者が「それ、欲しいの?」と尋ねたところ、男は「いや。でも、最後の一つだから」と答えました。
そこで、同行者は、男を別の棚のところへ連れて行きました。
そこには、男が「最後の一つ」と言っていたものと同じ鞄が、大量に陳列されていました。
それを見て、同行者はもう一度、男に問いかけました。「最後の一つ?」
すると男は、やおら手にしていた鞄を棚に戻しましたとさ。

……怖いですねえ。
欲しくもないのに、〝最後の一つだから〟と買おうとする。
でも、この男と同じようなことは、たぶん、私たちも一度や二度、経験したことがあるのではないでしょうか。

よく耳を澄ますと、街にはやたらと〝限定〟を煽る声が溢れています。
数量限定、期間限定、季節限定、お一人様限定●個まで、女性限定、男性限定、未就学のお子様限定、会員様限定……。

ここ8080号室で私が綴る、もう一つの文章『誰かのために』の第十三話で出てきた〝幻の林檎〟なる林檎も、まさにその土地でしか採れないという限定商品でした。そこにしかないものを、そこ以外のところで欲しい時、私たちはそれを〝幻〟と呼んで希少がり、高価な値段を付けて売買しようとするのです。幻がより幻になるような、物語という名の付加価値を付けたりして。

今だけ、ここだけ、これだけ、あなただけ。

そんな言葉に、私たちはとても弱い。
どうしてなのでしょうか?

人は、自分の行動は、自分の自由な意思のもとに為されると思っています。
何時に寝て起きて、何を飲み食べて、どこに行き何をするかは、全て、自分で選ぶことができると思っているのです。
それは、まだ十分に自分の意思を明示できない幼児や、保護者の許可がないと大きく制限を受けてしまう児童でさえそうなのです。

こうした思いは、人として、とても当たり前のものであり、当然守られる権利でもあります。
ところが、「限定」という言葉は、そうした自由に制約をかけてくるのです。

売り切れたら終わりだよ。
今買わないと買えないよ。
この季節にしか手に入らないよ。
2個までしか買えないよ。
こういう人しか、買えないよ。

こうした煽り文句は、自分のタイミングで、自由に、好きなだけ、誰でも、という〝自由〟を奪います。
そのとき人は、自由の強奪に反発したいと思い、奪われた自由を取り戻そうとします。その行為を心理学では〝心理的リアクタンス〟と言います。
心理的リアクタンスとは、〝奪われた行動の自由の回復を志向する情動喚起の状態〟と定義されます。

自由の取り戻し方は、二つあります。

一つは、「だったら、いらない」と、奪われた自由をそのまま突き放す行為です。
自由に振舞う〝自由〟を奪われることそのものへの反発。「今しかないとか言われたら、(欲しかったのに)欲しくなくなる」という現象です。好きなタイミングで好きなように買うという自由を奪われ、腹立ち紛れに反発してみると、意外と本当に欲しくなくなるのです。これには、『心を紡いで言葉にすれば』第4回でお話しした〝認知的不協和〟も関係します。『イソップ童話』の〝酸っぱい葡萄〟に出てくる狐の心理が、まさにこれですね。
「そろそろお風呂に入ろうかな?」と思っていた矢先、お母さんに「早くお風呂に入っちゃいなさい!」と言われた子どもが「絶対入ってやるもんか」とキレる心理は、この仕組みです。

そしてもう一つは、「意地でも欲しい」と、余計に求めてしまう行為です。
奪われてしまった、自由に振舞う〝自由〟を何としても取り戻そうとして、それに執着してしまう。手に入らないと言われると、余計に欲しくなる。それが、突然ものすごく魅力的に思えてしまう。そして、たいして欲しくもなかったのに、買わされてしまうのです。冒頭の男は、まさにこれに該当します。
そこにある心理は、「もし今買わなかったとして、この先万が一、欲しくなったとしても、それを手にすることができないかもしれない」という、未来の自分の自由を奪われることへの恐れなのかもしれません。
「いらないと言ったから、全部食べちゃった。もうないよ」と言われた子どもが「食べたかったのに~」と地団太踏んで暴れる心理は、この仕組みです。

〝心理的リアクタンス〟とは、一般的に後者の行為を指すことが多いのですが、いずれも〝奪われた自由〟を取り戻そうと反発する、という点では、同じです。

どちらのタイプのリアクタンスが生じるのかは、その人の性格や、奪われた自由の重要度や、自由の制限の仕方等によっても異なると考えられます。

それがものすごく欲しかった時に、それを手にするタイミングや入手条件や個数が制限されてしまった時、人は、執着するほうの行為に走ってしまうのかもしれません。何故なら、それを反発心だけで諦めることは難しいからです。〝欲しいのに手に入らない〟という不協和をどうやっても減らすことができないから。
だから、手持ちがなくても借金してまで、不当に高額であっても買ってしまう。まさに、悪徳業者の思うつぼです。
たぶんそれは、思うように事が進まない時にストレスを感じやすい〝欲求不満耐性〟が低い性格の人ほど起こりやすいと考えられます。

逆に、たいして欲しくなかった時は、どうでしょうか。
例えば、値段が安いとか無難だとか、それを入手するハードルが低い場合、ただ希少というだけで、人は、リアクタンスによって買ってしまうかもしれません。その傾向は、自由を制約されることへの反発心が強い、あまのじゃくな人ほど強いとも言えます。
でも、値段が高かったり、手に入れるのに時間や面倒な手間がかかったり、手にしたところで使いづらい場合、希少というだけでは買おうとしないでしょう。むしろ、それを入手することを軽視し、「珍しいからといってこんなものを買おうとするなんて、バカな奴だ」と侮蔑したり、「こんなものを欲しがるなんて、理解できない」と呆れるのでしょう。本来、自分の心にも(少しだけとはいえ)それを欲する気持ちがあったはずなのに。

「品薄だから、家にまだ在庫があるけど買い増ししよう」とか、「買うつもりはなかったけれど、今だけ安いんだったら買おう」という状況は、日常的によくあると思います。私たちがそうなってしまうのは、奪われた自由を回復しようとする心理なのです。

自由を求める心は尊い。
でもそれが、誰かによって予めお膳立てされた自由だとしたら、それって、本当に自由なのでしょうか?
限定と謳うものに煽られそうになったら、尾崎豊さんの『Scrambling Rock’n’Roll』を口ずさんでみてはいかがでしょうか?

ちなみに、冒頭のお話は、私の家族との買い物場面での実話です。偽物の自由の奪回を阻止できて、良かったです。

(by 大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

みなさま、「限定」には弱いですか。私はどちらかというと「限定」にさほど弱くないつもりでしたが、スーパーで悪くない野菜や果物が最後の一個だと取り敢えずカートに入れちゃいがちです。それに、明示的に「限定」と書かれていなくても、観光地などで「せっかく、わざわざここまできたんだから何か買おう」という心理で買ってしまうのも同じ理屈でしょうか。また、「必要になったらその時に手に入る最適なものを買えばいいんだから今はいらない」という(まさに私が取りがちな)態度も、いつでも必要なものは手近にあるはずという自由への信頼があってこそ。自由なんて儚いものなのに、どうして無根拠に幻の自由を信仰できるのでしょう。災害対策が手薄になりがちな行動パターンです。日常とは自由を取ったり取られたりの水面下の戦いなのですね。

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