【善財くんがゆく!】第九話 善財くん、空を歩く僧に出会う:第三の善知識・善住比丘 (5)

善財は、
しばらく空を見上げていた。

風が流れていく。

雲が動く。

遥か下では、
人々が小さく行き交っている。

そのすべてが、
巨大なひとつの流れの中にあった。

善財はぽつりと言う。

「でも……
難しいですね」

善住比丘は頷く。

「うむ」

「境界なんて無いって言われても……
やっぱり、
自分は自分だって思うし」

「当然じゃ」

善住比丘は笑った。

「いきなり全部分かったら、
誰も苦労せん」

善財は苦笑する。

それもそうだった。

善住比丘は、
ゆっくりと空中へ腰を下ろした。

まるで見えない縁側でもあるかのように。

善財も恐る恐る真似をする。

座れた。

未だに理屈は分からない。

だが、
もう驚く気力も少し薄れていた。

善住比丘は、
遠くの空を見ながら言った。

「人はのう、
自分を小さな箱へ閉じ込める」

「箱?」

「うむ」

善住比丘は、
指で四角を描く。

「これが自分。
これが常識。
これが世界」

善財は静かに聞いていた。

「だが本当は、
そんな箱など最初から存在せん」

風が吹く。

「空には壁が無いからの」

善財は空を見上げる。

どこまでも広い。

確かに、
区切りなどどこにも無かった。

善住比丘は続ける。

「だから、
自在に動ける」

「……」

「自在に見える」

「……」

「自在に変われる」

善財はふと思い出した。

「海雲比丘も、
似たことを言ってました」

「ほう?」

「全部、
繋がってるって」

善住比丘は嬉しそうに笑った。

「うむ。
あやつは“繋がり”を見ておる」

そして、
空へ指を向ける。

「ワシは、
“隔たりの無さ”を見ておる」

善財は目を瞬かせた。

似ている。

だが違う。

海雲比丘は、
無数のものが結ばれている世界だった。

しかし善住比丘は――

そもそも最初から、
分かれていないと言うのだ。

善財は思わず頭を抱えた。

「ややこしいなあ……」

善住比丘は吹き出した。

「うむ。
華厳とは、
そういうものじゃ」

善財は顔を上げる。

「え?」

善住比丘は、
少し悪戯っぽく笑った。

「簡単に分かった気になったら、
そこで終わりじゃよ」

風が吹く。

天の音楽が、
また遠くで鳴っている。

善財は、
その音を静かに聞いていた。

今はまだ、
全部は分からない。

だが。

分からないままでも、
前へ進める。

そんな気が、
少しだけしていた。

善財は、
しばらく空を見上げていた。

風が流れていく。

雲が形を変える。

遥か下では、
小さな川が陽光を反射していた。

その景色を見ているうちに、
善財はふと気づいた。

さっきまで感じていた
“空を飛んでいる恐怖”が、
ほとんど消えている。

善財は小さく笑った。

「慣れるものなんですね……」

善住比丘は頷く。

「うむ」

「人というのは、
案外なんでも慣れる」

そして少し笑った。

「良くも悪くもの」

善財は苦笑した。

確かにそうだった。

旅に出たばかりの頃は、
山を歩くだけでも大変だった。

徳雲比丘に出会った時は、
何を言っているのか半分も分からなかった。

海雲比丘の時は、
世界そのものが巨大すぎて眩暈がした。

だが今は――

空の上に座って、
天の音楽を聞いている。

慣れとは恐ろしい。

善住比丘は、
そんな善財を見ながら静かに言った。

「視界が広がるというのはな」

風が吹く。

「“特別なものが見えるようになる”
ということではない」

善財は顔を上げる。

「今まで、
見えなくなっておったものを、
思い出していくことじゃ」

善財は黙った。

その言葉は、
妙に胸へ残った。

善住比丘は続ける。

「子どもの頃は、
もっと世界が広かったはずじゃ」

「……」

「空を見て、
ただ嬉しかった」

風。

「知らない道を見て、
歩きたくなった」

雲。

「人の話を聞くだけで、
わくわくした」

善財は、
少しだけ目を見開いた。

それは確かに、
昔の自分だった。

善住比丘は笑う。

「だが人は、
だんだん“知ったつもり”になる」

空を見上げる。

「すると、
世界が狭くなる」

善財は、
返す言葉がなかった。

善住比丘は、
ゆっくり立ち上がる。

「さて」

「はい」

「そろそろ、
次へ進む頃合いじゃな」

善財は少し驚いた。

もう少し、
ここにいるような気がしていたからだ。

だが善住比丘は、
最初からそう決めていたような顔だった。

「旅は、
立ち止まりすぎてもいかん」

風が吹く。

「流れが淀むからの」

善財は立ち上がる。

そして、
深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

善住比丘は、
空の彼方を見ながら軽く手を振った。

「うむ」

「また、
どこかで会えますか?」

善住比丘は少し考える。

「会っとるかもしれん」

「え?」

「世界に隔たりは無いからの」

善財は思わず吹き出した。

善住比丘も笑う。

風が吹き抜ける。

天の音楽が、
遠くで静かに鳴っていた。

善住比丘は、
しばらく空を眺めていた。

やがて、
ふと思い出したように言う。

「そうじゃ」

善財は顔を上げる。

「次に会うべき者を、
まだ伝えておらなんだな」

「え?」

善住比丘は、
遥か南を指差した。

空の彼方。

雲の向こう。

「南へ行け」

風が吹く。

「そこに、
勝熱バラモンという男がおる」

善財は、
その名を繰り返した。

「勝熱……」

善住比丘は、
少しだけ苦笑した。

「まあ……
あやつは少々暑苦しいが」

「暑苦しい?」

「うむ」

善住比丘は頷く。

「火が好きでの」

善財は嫌な予感しかしなかった。

善住比丘は、
どこか楽しそうに笑う。

「だが、
おぬしにはちょうどよい」

「何がです?」

「“知る”だけでは、
越えられぬ場所があるということを、
あやつは教えてくれる」

善財は黙った。

風が吹く。

空の音楽が、
遠くで静かに鳴っていた。

善財はもう一度だけ、
広大な空を見上げた。

旅に出る前より、
世界は遥かに広くなっていた。

だが同時に。

以前より、
少し近くなった気もしていた。

そして善財は、
次なる善知識を訪ねるため、
再び大地へ降りていくのだった。


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