【 待ち伏せ 】
18時頃にホテルに戻った。街の風情はもうすっかり夜だった。夜を迎えるたびに街にはクリスマス・イルミネーションが増えていった。私は惣菜とワインを買っていた。パリ6日目の夜はホテルでのんびりと、ひとりで食事するつもりだった。
ところが見慣れた角を曲がってホテルを確認した段階で、足が止まった。ホテル前に路上駐車していた車はホンダの軽。黄色いスポーツカータイプだった。パリの路上でもすごく目立つ車だ。一瞬、逃げ出したい心境となったが、もはや遅し。私を見つけて車から降りてきたのは貞子とマリアンヌだった。
私は貞子に対して(わざと)とぼけた態度をとっていたが、マリアンヌの視線にはある種の特別なものを感じていた。「まさか」といった疑惑、率直に嬉しい気分、「いやいやこれはまずい」といった警戒……そうした感情が複雑に絡み合って心中で錯綜していた。しかし「いまここで恋愛になってしまったら……」という警戒感が一番強かった。刻一刻と帰国が近づいているというのに、そんなことになったらどうするのか。母の顔もチラチラと脳裏に浮かんでいた。心のうちでその声も聞こえていた。
「向こうはお人形さんみたいにきれいな女の人がぎょうさんいてはるのやろな」
「クラッと来て、向こうで恋人なんかつくったらあかんえ」
もちろんこうした疑惑は私の勝手な誤解かもしれない。「……いやそうであってほしい」「……いやきっとそうだ」
心のうちではそうした声もあり、私は「そうだそうだ」といった気分で彼女たちに笑顔を向けて軽く手を振った。するとマリアンヌがすっと近づいてきてハグしてくれた。ある程度慣れてはいたものの、一気に心臓の鼓動が早まった。次に貞子とハグ。やはりというかマリアンヌの方が熱意がこもっていた。
「今夜は飲みに行かないの?」
貞子は私の手提げを見ていた。ショッピング用に日本から持ってきたトートバッグだった。ワインの頭が突き出ていた。
私は一瞬、返事につまった。「部屋でひとりで飲みます」とは(なぜか)言えなかった。
「無理にはお誘いしないけど」と貞子は言った。「……今夜はアトリエでヌードデッサンするの? 来ない?」
私はほとんど無意識にうなずいていた。モンマルトルでヌードデッサン! この招待を拒絶する画家はいない。しかしちょっとした懸念もあった。
「会費はいくらですか?」
貞子は笑った。
「アトリエには貯金もあるのよ」
「なるほど」
「だからデッサンしたいというアトリエの仲間なら参加自由。会費なし。あなたから会費をとろうなんて思ってないわ」
私はそのまま彼女たちの車に乗ることになった。
【 ヌードデッサン 】
車中でなんとなく予想していたことだったが、やはりモデルはローズだった。テディベア専門店脇の路地に私をひっぱりこんだ娼婦だ。私を「アーミー」と勝手に呼んでいる女性だ。「この人はローズ。私たちのモデルをしてるの」と貞子が紹介してくれた女性だ。
我々3人がアトリエに入ったとき、タイミングとしてはジャストタイムのようだった。アトリエの真ん中に毛布が(2枚重ねで)敷かれていた。毛布の端には椅子も置いてある。それを使うかどうかはローズが決めるのだろう。すでに5人ほどの画家たちがそれぞれ準備している最中だった。すべて男性で、その中にピエールとシーレがいた。ピエールは私に気がつくと大きく手を振った。シーレは私をチラッと見ただけの無表情だった。画家たちはそれぞれ自分の決めた位置でイーゼルを立て、カルトンやキャンバスや大判のスケッチブックを立てかけていた。
貞子とマリアンヌは倉庫に置いてある自分のイーゼルを持ってきた。私は予備のイーゼルを貸してもらった。
マリアンヌは私のすぐ脇にイーゼルを立てた。貞子は?……と見ると、少し離れた位置にイーゼルを立てた。私の視線に気がつくとウィンクした。それがなにを意味するのかわからなかった、というかわからないことにした。

しばらくしてローズが出てきた。ネグリジェのような純白のワンピース姿だった。ちょっと驚いたのは、ローズを見た(男性の)画家たちから一斉に声がかかったことだ。「ヒュッ」と口笛を吹く画家もいた。(私がそれまでに経験してきたような)「モデル登場」といった厳かな雰囲気はまったくない。まるでストリップ劇場の舞台に看板娘が出てきたような和やかでいかがわしい雰囲気だった。
【 つづく 】

