勝熱バラモンと別れてから、
数日が過ぎていた。
善財は、
南へ向かう街道を歩いていた。
空気が違う。
そう感じた。
勝熱のいた山は、
熱と炎に満ちていた。
だが今、
吹いている風は柔らかい。
涼しい。
善財は、
小さく息を吐いた。
「……生きてるなあ」
思わずそんな言葉が漏れる。
刀山を登り、
炎へ飛び込み、
神や魔王に囲まれる。
冷静に考えると、
かなりおかしい旅だった。
だが不思議と、
以前ほど疲れてはいなかった。
胸の奥にあった、
妙な力みのようなものが、
少し減っている気がした。
善財は空を見上げる。
白い雲が、
ゆっくり流れていく。
(恐れたままでも、
前へ進めばいい……か)
勝熱バラモンの言葉を思い出す。
すると。
遠くに、
巨大な城壁が見えてきた。
陽光を受けて、
白く輝いている。
「あれか」
善財は歩みを速めた。
獅子奮迅城。
次なる善知識、
慈行童女がいる場所である。
近づくにつれ、
人の数が増えていく。
旅人。
商人。
老人。
子ども。
様々な人々が、
同じ方向へ歩いていた。
いや。
歩いているというより、
どこか浮き立っている。
皆、
少し嬉しそうなのだ。
善財は、
近くを歩いていた老人へ声をかけた。
「すみません」
「ん?」
「皆、
どこへ向かってるんですか?」
老人は、
不思議そうな顔をした。
「何を言っとる」
そして当然のように言う。
「慈行童女さまの説法を聞きに行くに決まっとるだろう」
周囲の人々も、
当たり前のように頷いている。
善財は少し驚いた。
(そんなに有名なのか……)
勝熱バラモンの時とは、
えらい違いだった。
あっちは、
近づくだけで命の危険があった。
しかしここでは、
人々が自分から集まっている。
善財は、
人の流れに混ざって城門をくぐった。
その瞬間。
ふわりと、
香りが流れてきた。
甘い。
だが重くない。
森の風のような、
静かな香りだった。
善財は思わず足を止める。

(何だ……?)
周囲を見る。
白い石畳。
水路。
色鮮やかな花々。
風に揺れる幟。
そして。
遥か奥に、
巨大な宮殿が見えた。
陽光を受け、
金や銀や宝石が、
まるで水面のように輝いている。
善財は目を見開いた。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
美しかった。
だが。
ただ豪華なだけではない。
どこか、
空気そのものが澄んでいる。
人々のざわめきすら、
妙に心地よかった。
善財は、
人の流れに押されるように、
宮殿の奥へ進んでいく。
やがて。
巨大な法堂へ辿り着いた。
無数の柱。
金銀宝石で飾られた天井。
龍勝栴檀の香り。
透き通るような光。
その中央に。
ひとりの少女が座っていた。
善財は、
思わず息を呑む。

肌は、
淡い黄金色。
瞳は、
深い紫紺。
長い髪は、
夜空のような紺青。
その周囲には、
五百人もの童女たちが控えていた。
だが。
善財の目を奪ったのは、
姿形だけではなかった。
少女が口を開いた瞬間。
法堂の空気そのものが、
静かに変わったのだ。
声は大きくない。
むしろ穏やかだった。
だが。
涼しい風のように、
その言葉は、
まっすぐ人々の胸へ届いてくる。
善財は、
呆然と立ち尽くしていた。
(この人が……
慈行童女……)
法堂は静まり返っていた。
大勢の人々がいる。
なのに、
妙な静けさがあった。
慈行童女の声だけが、
澄んだ水のように響いている。
善財は、
人波の後ろからその姿を見つめていた。
勝熱バラモンのような、
圧倒的な熱気はない。
善住比丘のような、
宇宙的な浮遊感とも違う。
だが。
不思議と、
目を離せなかった。
慈行童女は、
ゆっくり人々を見渡していた。
その視線は、
誰か一人だけを見ているようでもあり、
全員を同時に見ているようでもあった。
やがて。
慈行童女の視線が、
善財のところで止まる。
善財は思わず背筋を伸ばした。
慈行童女は、
小さく微笑む。
その笑顔は、
どこか春の風のようだった。
善財は、
人々の間を抜けて前へ進む。
自然に道が開いていく。
善財は慈行童女の前まで来ると、
深く頭を下げた。
「はじめまして。
……善財といいます」
慈行童女は、
静かに頷いた。
「遠くまで、
よく来ましたね」
その言葉だけで、
善財は少し泣きそうになった。
不思議だった。
責められたわけでもない。
褒められたわけでもない。
なのに。
旅の疲れごと、
見透かされた気がした。
善財は、
少し照れ臭そうに頭を掻く。
「ええと……
何か、
大変でした」
法堂のあちこちで、
小さな笑いが起きる。
慈行童女も、
少しだけ笑った。
「でしょうね」
その笑顔を見た瞬間。
善財は、
何だか妙に安心してしまった。
慈行童女は、
ゆっくりと手を上げる。
「善財さん」
「はい」
「この法堂を、
見渡してごらんなさい」
善財は少し戸惑った。
法堂?
改めて周囲を見る。
無数の柱。
金銀の装飾。
宝石。
瓔珞。
天井。
美しい空間だった。
だが。
それだけだ。
善財は首をかしげる。
「ええと……
綺麗ですね」
法堂のあちこちで、
また小さな笑いが漏れる。
善財は少し焦った。
(何か違う!?)
慈行童女は、
変わらず穏やかな顔をしていた。
「もう少し、
よく見てごらんなさい」
その瞬間だった。
法堂の光が、
ふっと揺らいだ。

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