老化と介護と神経科学15「神経科学、客観主義とロマン主義」

今回は、「老化と介護」はちょっと横において、神経科学の話。

神経科学というのは、「こころ」の解剖生理学的基盤としての脳・神経系の仕組みを研究する学問領域である。当然、「こころ」の現象面を扱う心理学とは近い関係にある。
心理学にとって、20世紀前半というのは、目覚ましい発展の時期だった。フロイトやユングが活躍したこの時期、アカデミックな心理学では行動主義が発展した。イワン・パブロフが活躍したのもこの時代だ。
行動主義というのは、科学としての心理学では、客観的に観測できる行動のみを取り扱い、主観的な体験は扱わないという考え方である。有名なパブロフの実験で言えば、ベルの音の後で分泌される唾液の量は客観的な分析の対象になるが、犬の食欲とか喜びの気持ちは対象にならない。犬が尻尾を振る回数は観測可能なので研究対象としても良いだろうが、「犬が喜んでしっぽを振った」などという主観的な解釈は厳に戒められる。

べつに行動主義心理学者たちは「こころ」の存在を否定しているわけではない。(否定した人たちもいるらしいが。)
感情も、意思も、意欲も欲望も存在はするだろうが、客観的に測定できないものは科学の対象にならない、少なくとも自分たちは対象にしないと宣言したのである。
「こころ」自体は観測不能なので、その中身については議論しない。その代わり、「こころ」への入力である様々な刺激(目に見える写真や景色や文字も、耳に聞こえる言葉や音も、すべて「刺激」と呼ばれる)と、出力である反応(行動)、その関係を研究しようというわけだ。

20世紀も後半になると、そういうクソ真面目な考え方では満足しない研究者が増えてきた。とくに神経科学の分野では、入力(刺激)と出力(反応)の間で起こる脳の神経活動を観測できるようになったので、いかにも神経活動=「こころ」という感じがする。
2000年前後には、fMRIなどの脳機能画像法が普及し、生きている人の脳の活動が測定できるようになったので、人の「こころ」に関わる様々な脳活動が研究対象になった。
もはや科学が扱うのは無味乾燥な入力と出力、刺激と反応の関係ではない。感情も意思もやる気も、共感や道徳ですら研究対象だ。ロマンあふれる「こころ」の科学の時代になったのだ。

そういったロマンチックな研究は、多くの研究者以外の人の興味を惹き、マスコミでも頻繁に取り上げられ、テレビ番組に多くの「脳科学者」が登場するようになったのは、みなさん既にご存知のとおりである。

さて、20世紀後半以来、科学の世界でそのようなロマンチックな潮流が起こっているときに、外の世界では、全く逆向きの、客観主義信仰の強い潮流が起きているように見える。
人間のあらゆる活動が入力(投資、労働)と出力(成果、収益)の観点から客観的に検討され、評価される、されなければならないという信仰である。
企業活動のことだけを言っているのではない。恋愛などという活動は出力/入力比(コスパ)が悪いので忌避されるそうである。
そういう客観主義の信仰からすれば、障害者などは非常にコスパの悪い存在であり、相模原殺傷事件のようなことが起こるのは当然であろう。

そんなのはごく一部の極端な例だ、と言われるかもしれない。だが、客観主義の影響はずいぶんと広く、強いように見える。
たとえば、もはや普通の言葉になってしまった「思い出作り」というのも、要するに、主観的な体験を写真や言葉、物など客観的なデータとして残さなければ気が済まない、という強迫的傾向を表しているのではないだろうか。科学にロマンが求められるのは、世間で客観主義があまりに強くなっていることへの反動ではないかと思われてならない。

べつに客観的であることが悪いと言っているわけではない。それどころか客観性はきわめて大切である。だが、客観「主義」信仰が強くなりすぎて、客観的に扱えない事柄まで「客観的っぽく」扱うと、いろいろ困ったことが起こる。客観的であろうとするなら、20世期の心理学者達のように、「ここから先には踏み込まない」という限界をわきまえておくことが必要ではないだろうか。

心臓が拍動したり神経細胞が活動電位を発生したりするのは客観的な現象であるが、人が「生きる」ということは、客観的な「現象」ではなく、主観的な「体験」として捉えなければ意味がないのではないかと、私は思う。

(by みやち)

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