老化と介護と神経科学7 私の「認知症」体験(1)松屋の券売機の前で凍りついたこと

身近な人の、例えば自分の親の認知機能が落ちてきて、生活に支障が出るようになると、何かといらいらすることが多いものである。

「さっき言ったでしょ!」「目の前にある物がなんで見えないの!?」「まだやってないの!?」えとせとらえとせとら。

だが、まだ「認知症」とは縁遠いはずの私自身、ふとした拍子に頭がうまく回らなくなって、誰かから怒られたり、自分で腹を立てたりすることがある。
そんな私の「認知症」体験を、何回かに分けて書いてみようと思う。

以前このコーナーで、JRの券売機が使えなくて困った話を書いたことがあるが、機械の操作というのは、実はけっこう大変なことである。使える人にとっては当たり前の「お約束」が、使えない人にとっては全くの謎だったりする。
そもそも機械というものは不自然なものであり(自然界のどこにボタンやカーソルがあるだろう?)、それを使いこなすためには、使う側が「慣れる」必要があるのだ。

「慣れ」というのはすごいものだ。どんな不自然なこと、むずかしい作業でも、繰り返して慣れてしまえば、ほとんど無意識のうちにできるようになる。
これを心理学用語では「手続き学習(procedural learning)」あるいは「慣れの学習(habit learning)」と呼ぶ。

人の意識の容量というのは限られたものである。できれば、いろいろな行動や判断を無意識の行動プログラム(手続き記憶)に任せて、意識の仕事を減らしたいというのが人情である。
だが、無意識の行動プログラムは融通がきかない。今朝は駅に行く前に郵便局に寄ろうと思っていても、気がついたら駅に着いていたりする。忙しい時、疲れているとき、そしておそらく老化によっても、意識的な行動の切り替えはうまくいかなくなる。

その日私は疲れていた。どのくらい疲れていたかというと、晩飯時に食べ物屋の並ぶ商店街で、何を食べたら良いか決められずに、通りを2往復するくらい疲れていた。最後に私が入ったのは、牛丼の松屋だった。
店に入ると、食券の券売機がある。最近は、牛丼屋でもラーメン屋でも、券売機で食券を買う形式の店が多い。現金の管理をしなくて済むからだろう。
私は、もう何も考えたくなかったから、牛丼の並盛りを頼むと決めていた。だから注文は簡単である。もう迷う必要はない。しかし、券売機の前に立った私はそのまま凍りついてしまった。
券売機の使い方がわからなかった、のではない。何がわからないのかがわからなかったのだ。何がわからないかわからないから、どうすれば良いかもわからない。
10秒か20秒、いや、30秒くらいそうしていたかもしれない。最後に私は、画面の字を読むことを思いついた。
話は簡単である。メニューを選ぶ前に「お持ち帰り」か「店内でお召し上がり」かを選ばなければならなかったのだ。私は「店内でお召し上がり」を押し、続いて現れたメニューリストの中から「牛丼(並)」を選んだ。選びながらだんだん腹が立ってきた。
だいたいこんな機械を使うからいけないのだ。吉野家だったら、店員さんに「牛丼、並ひとつ」と注文すれば、向こうが「店内でお召し上がりですか」と聞いてくる。なんで客が機械に合わせて融通を利かさなければならないのだ!

腹は立ったが、後から考えると面白い体験だった。人間は、そんなにいつもいつも意識的に行動してはいないのだ。あの券売機に、初めから「牛丼(並)」という表示が出ていたら、私は何も考えずに無意識の行動プログラムに従って、そこにタッチしただろう。あるいは、あんなに疲れていなければ、一つの行動プログラムがうまくいかなくなった瞬間に、画面の説明に注意を向けることができただろう。いずれにしても、無意識的な行動と意識的な行動が切り替わったことなど、気が付きもしなかったろう。

一つの行動プログラムが失敗し、行動の切り替えもできずにいる、何がわからないのかわからない、自分に何が起きたのかもよくわからない、宙ぶらりんな感覚。あの疲れた夕方に私が経験した混乱と腹立ちは、おそらく多くの(都会で暮らす)老人たちが、しばしば経験していることなのではないだろうか。

(by みやち)

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