「老年期」と一言で言っても、人生100年時代と言われる昨今、それは長い期間である。その長い期間を「老年期」という言葉で括るのには無理があるのかもしれない。前回までの話で主に想定していたのは、老年期と言ってもまだ比較的若く、健康で、自立した生活のできる時期のことだった。
だが、多くの人は、老年期のいつか、身体的、認知的能力の低下により、何らかの介護を必要とするようになる。それは、学童期の子供が、急速に様々な身体的、認知的あるいは社会的能力を身につけ、大人になっていくのと逆向きの変化といえる。
学童期を特徴付ける心理的課題は、「勤勉性対劣等感」だという。たしかに、この時期の子供たちには、ある種奇妙な勤勉性が見られる。
野球好きの子が、好きなピッチャーの投球フォームを細部にわたって真似たり、電車好きの子が、路線図や車両の形式を覚えたりするのは、勤勉性なしにはできないことだろう。一方で、自分の不得意なことに劣等感を感じるようになるのも、この時期だ。
高齢期の様々な能力の低下に対抗、あるいは対応するのにも、勤勉性が必要だ。
もう10年くらい前になるだろうか。家の近所で一人の老人が歩いているのをよく見かけた。おそらく何か大病の後のリハビリなのだろう。杖をつき、小さな歩幅で、いかにも「よちよち」という感じで歩く姿は、危なっかしくもあり、また痛々しい感じがした。
朝の出勤時に見かけることが多かったが、週末の日中にも出会うことがあったから、毎日、おそらく1日に複数回歩いていたのだろう。これを勤勉と言わずになんと言おうか。
驚いたことに、この人の歩き方はどんどん変わっていった。そして初めて見かけてから半年もすると、歩幅が広くなり、普通の大人と変わらない速さで歩くようになったのだ。
その後1年くらいは時々元気に歩く姿を見かけたが、次第に姿を見なくなった。彼がその後どうしているか、私は知らない。
私の父の場合、問題は記憶力だった。父は、その能力低下に勤勉に取り組んだ、と私は思う。元々手帳を持ち歩く人だったので、その手帳に全ての予定を書き込んだ。電話を受けた時はメモ用紙にメモを取った。請求書が郵送されてきたら、封筒の表に金額と期限を書き込み、支払ったら「済」と書いた。持病の薬は1回分ずつに分けてピルケースに入れた。
だが、そういった勤勉な努力が一定期間は有効だったとしても、『アルジャーノンに花束を』のチャーリー・ゴードンが言っていたように、「下りのエスカレーターを逆向きに駆け上る」ような努力がいつまでも続きはしない。しだいに、物忘れによる失敗が目につくようになった。請求書や病院の予約については、月に1度ほど妻か私が訪問した際にチェックしたが、日々の薬の飲み忘れはどうしようもなかった。
要介護(はじめは要支援だったか)認定を受け、ケアマネと相談し、訪問看護を受けることにした。薬は週に1回訪問する看護師さんが、お薬カレンダーにセットしてくれることになった。
「お薬カレンダー」というのをご存知だろうか。大型の壁掛けカレンダーくらいの大きさの台紙に、ビニールのポケットが4列×7行に並んでいる。そこに、月曜〜日曜の朝、昼、夕、寝る前の薬を入れておくのだ。これならば、ひと目見れば薬を飲んだかどうかすぐわかる。
ところが、これがひどく本人の気に触ったようだ。「余計なお節介だ。薬は自分でちゃんと飲んでいる。」
なだめるのに随分苦労した。「看護師さんはこれが仕事なんだから、やらせてあげなきゃ」などと、我ながら訳のわからないことを言って説得した。
今考えると、父にとっては、自分が精一杯努力していることを否定されたわけで、屈辱的な思いだったのだろう。小中学生の頃、一生懸命勉強してもテストの点数が悪くて怒られたり、一生懸命走ったのに徒競走でビリになって笑われたり、ちょうどあんな気分だったのではないだろうか。
成長過程の子供なら、不得意なことで劣等感を持ったとしても、努力によってそれを克服することができる。あるいは、不得意なことは放っておいて、得意分野を伸ばす、ということもできる。
だが、老年期に不可避な能力の低下に直面しながら劣等感を持たないというのは、ひどく難しいことではないだろうか。おそらくそれは、一人で乗り越えることはできないのではないか。
介護が始まるということは、介護する側が、介護される側の心身の状態に(程度の差はあれ)責任を持つということだ。
介護される側が、介護を受けることによって劣等感を持つならば、「あなたは能力が低下して介護が必要です。にもかかわらず私はあなたをリスペクトします」ということを、わかりやすく伝えることが必要だろう。
私にそれがどれだけできていたか、もっときちんと伝えなければいけなかったのではないか、などと今頃思っている。
(by みやち)
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