電車 居眠り 夢うつつ 第39回「文章の意思と筆者の意思」

本格的に暑くなりました。東海地方でも梅雨が明けたようです。青い空に白い雲。美しい夏の空です。
これだけ紫外線が降り注いでいるのだから、コロナウイルスも死滅してくれればいいんですが、どうもそうはならないようです。やっぱり、どこかの大統領の言うように、体内に日光を当てないとダメなのでしょうか。

私がホテル暴風雨で部屋をもらったのは、2016年の7月のことでした。数えてみると、もう丸4年経つのですね。月日の過ぎるのは早いものです。

4年間、ほぼ毎週短い文章を書いていて感じるのは、文章というのは、筆者の意のままになる物ではないな、と言うことです。
勿論、筆者としては、書きたいことがあって書き始めるのですが、書いているうちに、文章の流れのようなものができてきて、筆者もその流れに逆らえなくなる。私自身は、自分が面白いと思ったことについて書きたいのに、文章の方は細かな論理的整合性や、周辺的な事実の確認にこだわって、本題からずれていってしまう。
どんどん流されていって、1000字以上書いてから、「ちがう。こんなことを書きたいんじゃない」と言って、初めから書き直す、と言うことも1度や2度ではありませんでした。
もちろん私はしっかり目覚めていて、自分の意思で自分の手でキーボードを叩いているのですが、その手を動かしているのは本当に自分の意思なのか、「文章の意思」なのではないかとさえ思えてきます。

ただし、ありがたいことに、最近は昔のように、文章の流れに飲み込まれる、と言うことは減り、むしろ、文章の流れに乗っているうちに、珍しいところに連れて行ってもらった、と言うようなケースが増えてきました。たとえば、前回の内容は大部分が文章くんの作と言っていいくらいだし、前々回で、カテゴリー選択的ニューロンの話を書いたのも文章くんのアイディアでした。

さてさて、「文章の意思」などと言っていますが、パソコンのキーボードを叩いているのはどう見ても私の指であり、私の指を動かしているのはどう考えても私です。だとすると、この「文章の意思」と言うのも、私の中にあることになります。私の心の中に、私自身とは思えないような「主体」がいて、「私」の邪魔をしたり、「私」には思いつかないようなアイディアを提供してくれたりする。文章を書くと言うのは、私の中にいる「私」と「私」以外の誰かと
の対話なのかもしれませんね。

余談ですが、これまで約100年にわたる神経科学のさまざまな研究で、脳の機能局在がかなり詳しくわかってきました。
脳の中で、体の各所を動かす領域、物の動きを見る領域、短期記憶を保持する領域、感情を制御する領域など、かなり詳細な脳の「地図」ができています。
しかし、あらゆる感覚、運動、認知などを統合する「私」(あるいは「自我」)を担う特定の領域や、特定の神経活動というものは見つかっていません。
「私」は脳のどこにいるのでしょうね。

(by みやち)

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