電車 居眠り 夢うつつ 第51回「日本学術会議と日本の文化」

最近、日本学術会議がにわかに脚光を浴びている。で、私の職場は大学の研究所だから、同僚たちはこの話題で持ちきりであるかというと、そういうことはない。それどころか、私の周りでこの話が話題に上ったことは一度もない。

べつに、職場で政治の話がタブーになっているわけではない。新型コロナの感染が拡大していた頃には、人が2人集まればコロナの話。政府の対応への批判も多かった。慰安婦像の問題がニュースになれば、「韓国けしからん」派と「日本政府も良くない」派で議論になった。トランプ大統領が何かすれば、昼飯時の会話の絶好のネタである。

それなのに、ある意味では自分たちの問題とも言える日本学術会議の人事問題が一切話題に上らないというのは、不思議といえば不思議なことである。ある新聞のコラムでは、学術会議は研究に直接関係ないから、多くの研究者は声を上げないのだと言う東工大の先生のコメントが載っていたが、そればかりではないような気がする。私自身について言えば、関係ないとか興味がないとかではなく、この話題を口にしにくい感情がある。それは一体どういうことだろ
うか。

私たち日本人の心には、自分(あるいは自分たち)の不満を言うのは悪いことという不文律のようなものが刷り込まれているのではないだろうか。
日本人みんなが迷惑していることなら言っても構わない。たとえば新型コロナウイルス対策についてなら、これは日本人みんなに関わることだから、いくら政府を批判しても構わない。あるいは他国の大統領について何を言おうと、私個人や自分たちのグループの特別の不満ではないから、これも言って構わない。ところが、「自分が」、あるいは「自分たちが」、という話になると、途端に言いにくくなる。そいうことではないだろうか。

これは、性犯罪の被害者や、ブラック企業で働く労働者などが声を上げにくいということとも、たぶん共通した心理なのだろう。「私」のことでみんなを騒がせるのはいけないこと、そういう行動規範が、私たち一人ひとりの心の中に刷り込まれているのだろう。そういう無意識の行動規範のことを、「文化」というのではないだろうか。

いま「声を上げる」とか「騒がせる」という言い方をしたが、そういえば、アメリカの街ではよく大声を上げ騒いでいる人を見かける。周りのアメリカ人たちも、そういう人たちのことをなんとも思っていないように見える。こういうのを、文化の違いと言うのだろう。

(by みやち)

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