【 愛欲魔談 】(14)痴人の愛/谷崎潤一郎

【 鎌 倉 】

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を毎週の楽しみとしている人も多いだろう。鎌倉が脚光を浴びている。首都圏以外で生活している人にはいまひとつピンと来ないかもしれないが、仕事仕事で明け暮れる都心の人々にとって「鎌倉」という地名の響きは独特の憧れを伴っているように思われる。

東京の広告代理店でAD(アートディレクター)として働いていた時代、私の同僚に25歳女性コピーライターがいた。彼氏はいないらしく常に周囲に「鋭意募集中」と言っていた。よくわからんがこの「鋭意」というのがコピーライター的に大事らしい。
酒が好きな女性だったのでよく一緒に飲みに行った。彼女は夢見る少女のような目で語ったものだ。「デートするなら横浜」。そして数社を渡り歩き、様々な男性ともおつきあいして経験を重ね、それを元にして小説も書き、もし有名になったら、「住むのも横浜。高層マンション。毎晩、横浜港の夜景を楽しめる場所」……なんだそうである。「ははあ、そういうものか」と感心して聞いたものだ。女性は夢のビジョンが細かい。

「現役を引退したら鎌倉」と彼女は言った。その時代、私はまだ鎌倉に行ったことはなかったが、東京や横浜にはない「落ち着いた風情の古都」というイメージはなんとなく知っていた。東京は仕事する場所であり、横浜はデートを楽しむ場所であり、鎌倉は余生を悠々と楽しむ場所、というイメージなのだろう。

【 避 暑 地 の 画 策 】

さて本題。「ナオミの男遊び」が河合の会社同僚にウワサされていた、という一件からナオミはしばらくおとなしくなった。……と河合は言っている。しかし読者はナオミがこれで反省し生活を改めるつもりになったとは全然思っていない。今回はちょっとやばかったわ、少し自重して時間を置いて次の機会を待とう、程度の心境なのだろうと思っている。

ともあれ、しばらくしてナオミは鎌倉に避暑に行きたいと言い始める。河合にとって鎌倉といえば「ナオミと新婚旅行で行ったところ」というイメージがある。彼は喜んで賛成する。
宿泊手配をしたいと言い出すナオミ。こうなってくると読者はたちまちナオミの画策を疑い始める。「おい河合、大丈夫か?」といった気分となる。しかし話はトントンと進み、旅館ではなく「ダンス仲間の会社重役が別荘として借りていた離れ」を一ヶ月ほど借りるという贅沢な避暑となる。

避暑はいいが、河合が会社から休暇をとれたのは10日間だ。その休暇が過ぎれば彼は「鎌倉の離れ」から会社に通うことになる。「それは通勤が大変」などという心配はナオミには全くない。もう本当にこの女ときたら、頭にあるのは自分の享楽だけだ。

休暇明けの河合は会社での残業が続き、帰宅は連日のように午後11時ごろになってしまう。ところがある日、運よく残業を回避できた河合は早目の帰宅となった。ところが離れにナオミはいない。読者は「ああー」といったため息にも近い暗澹とした気分になる。

ずっとここまでこの小説を読んできて不思議に思うのは、(それはもちろん読者にもよるのだろうが)河合に対する「ざまあみろ」気分がほとんどないことだ。これはどういうことなのだろう。河合に共感しているというよりも、憐憫に近い感覚かもしれない。

河合は隣接する母屋の奥さんをつかまえてナオミの行く先や最近の行動を聞くうちに、ついつい(疑いが先走った)問いただし口調となってしまう。やはり青年たちがここにも来てきたのだ。ナオミを連れ出して近くの別荘まで行ったらしいのだ。奥さんからその別荘の位置を聞き出し、夜陰に紛れて忍び寄る河合。

彼がそこで見たのは、青年たちに囲まれ、はしゃぎながら出てきたナオミだった。しかもその姿は黒マントをひるがえすようにして歩いているものの、その下は全裸。動転した河合は結局、青年たちに見つかってしまう。彼はついにナオミを怒鳴りつける。
ばいた!淫売!じごく!

女性を罵倒する酷い言葉にも色々あるが、「じごく」とはなにか。「ひそかに淫売する女のこと」とある。原文では「じごく」なので漢字はわからないのだが、「自獄」だろうか。
ともあれ、とうとう最悪の(怒りが炸裂したような)罵倒が河合の口から発せられる局面となってしまった。

つづく


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