【 デッサン 】
ちょっと専門的な話で恐縮だが、今回はデッサンの話から始めたい。「モンマルトルの画家たち」を語る上で、重要なキーとなってくる話であり、また多くの人は日常的にデッサンを語ることなどまずないと思われる。なので「たまにはこうした話を聞くのも悪くない」てな気分で読み流していただければありがたい。
さてデッサン(dessin)。フランス語である。「線を引く」という意味である。
「線を引く?……ちょっと意外だな。描写するとか、そういう意味だと思っていた」とあなたはいま思ったかもしれない。確かに日本では「デッサン」と共に、同じような意味の言葉として「素描」が使われることがある。
一般的には、デッサンとは
(1)モチーフ(描く対象)をよく見て観察し(道具、食器、花、果物、石膏像、人物など)
(2)鉛筆とか木炭を使い(つまり色は使わない)
(3)なるべく正確に描く。
このように解釈されている。
なんというか「絵の基礎学力」といった固いイメージがプンプンしておりますな。こういうのが嫌で絵から離れていく、あるいはこの方面に進むのを諦めてしまう、そうした人がいかに多いことか。
話を戻そう。
私もまた「美術方面に進む」ことを選択したので、こうした「デッサンという名のハードル」は嫌というほど味わってきた。しかし「描く」という行為がとにかく好きだったので、デッサンというハードルを越えた後も「なんか描きたい」という絵心は、かろうじて残っていた。
何事もそうだと思うが、「基礎」だの「学力」だのという名目のもとに、号令一下でやらされた強制的な制作が好きになれるはずがない。そうしたことをガリガリとやらされた高校、(美大入試のための)予備校、大学(教育学部・美術教育専攻)ではやむなく従ったが、その後社会に出ると、デッサンとはすっかり縁が切れてしまった。しかし私には(前述したが)「なんか描きたい」という絵心が残っていた。
そこで会社を辞めてフリーになった時期から自分流にコツコツと絵を描き始めた。好きなようにデッサンも始めた。
独学の強みは、とにかく「意欲がある」ということではないだろうか。それに尽きるように思う。独学で始めたデッサンは楽しかった。好き勝手に色々なデッサンを始めた。「単色(黒のみ)で描く」のも嫌いではなかったが、色鉛筆を使って(自由な色彩で)デッサンするのが好きだった。タッチの研究も始めた。
デッサンをする際に、輪郭だけを追うのではなく、タッチを入れたくなることがある。陰影を表現したいためだ。デッサンはとにかく「1点でも多く描いて経験を増やしていく」ことが大事で、制作数とかそうした状況の経験を重ねていくうちに、タッチはどんどん自分流に変更され、工夫され、変化してゆく。こうした「数をこなすことにより、特に意識はしていなくとも変化してゆく技術」というのは、絵を描く人間特有の発見であり悦楽かもしれない。
一般的には「デッサンは本番制作に入る前の習作」と考えている人が多い。しかし(世界的規模で調べてみると)必ずしもそうではない。デッサンもまた「完結した作品」と捉えて、その技術の向上、その表現の変化、そうした経過を楽しんでいる画家もたくさんいる。私もまたそれに近い。デッサンもただ「描きたい」という欲求に基づいて描くことが多い。その後に本番制作に入るとか、そうしたことは全く考えていない。
【 タッチ 】
さて本題。
ピエールが私のデッサンに興味を持ち、仲間である貞子をわざわざ呼んできたのは、その当時の私のデッサンに見られるタッチの入れ方に興味を持ったのだろうと思われる。逆に言えば、それ以外に私のデッサンに興味を持つ理由など、まず考えられない。別段、変わった表現をしていたわけではないが、その当時、私はデッサン制作に実験的なタッチを加えていた。それは確かだ。
「このタッチだけど……」と貞子が聞いてきた。「やはり」と私は内心で思った。
「これはあなたのオリジナルなの?」
「いいえ」と私は言った。「ダ・ヴィンチのデッサンに影響を受けています」
「ああなるほど。確かにこういう、横線をシャシャッと入れるデッサンがあるわね」
「結構、ありますよ」と私は言った。「斜め線とかもありますけど、そういうのを真似して何枚か試している間に、横線がいいなと思ったのです」
「ふーん。面白いわね」

なんとなく感心している風情の貞子を見たピエールが、やや早口で何かを聞いてきた。
この男は(まだどんな男なのか全く知らないものの)少々せっかちなところがあるように思われた。貞子はそれに対してフランス語で対応した。貞子のフランス語はじつにゆったりとして綺麗な発音だった。ちょっと面白いことに、彼女のフランス語は(日本語に比べて)少し声のオクターブが上がるように思われた。いずれにしても、私の目の前で2つの(全く異質な)言語を自由に操る貞子に対して、尊敬の念を抱いた。心からうらやましいと思った。
「あのね、ピエールが言うにはね」
貞子は私に向き直って笑った。
「あなたがデッサンしているところを見たいというの」
一瞬、どう返事したらいいのかわからなかった。
【 つづく 】

