【 魔談543 】モンマルトルの画家たち(44)

【 走馬灯 】

ハッとなにかに驚いたように目が目覚めた。なにがきっかけで目が覚めたのかよくわからなかった。
やっとホテルに戻って、ドアに鍵をかけて、ベッドにもぐりこんで、爆睡して……それでも体のどこかに微弱な電流が絶えまなく流れているように、緊張が持続していた。
「やれやれ」といった気分だった。腕時計を見るとすでに正午を回っていた。睡眠不足はすっきりと解消され、体調も悪くはなかった。しかしすぐにベッドを出る気分になれなかった。

両手を頭の後ろに回し、ホテルの天井を見上げてあれこれと回想した。この国に降り立ってからの私の行動、出来事、出会った人々、印象的なシーン……そうしたことどもが次々に脳裏をよぎっては消えていった。
「まさに走馬灯」と苦笑した。

臨終を迎えた人はいよいよ旅立つというその瞬間に、それまでの人生でもっとも印象的だったシーンを次々に見てうっとりするという。すべての人にその瞬間が訪れるのかどうかはわからないが、その瞬間を楽しみにして生きていくのも悪くない。

ふと想像した。いまこの瞬間に、心臓発作とかで、ゼンマイが伸びきってしまったようにコトリと死んでしまった、なんてのはどうだろう。そのような最後だったら走馬灯は見るのだろうか。
今日も明日も、私の死は誰も知らずそのままだろう。明後日になって私がチェックアウトしないので、不審に思ったマスターがこの部屋に来るだろう。合鍵を使って中に入り、大騒ぎになるだろう。パリの警察がやってきて、次に検死官がやってきて、私の所持品から日本の代理店に電話が入り、日本の警察から私の実家に電話が入るだろう。受話器をとった母は……そこまで想像し、「なにを馬鹿なことを想像しているんだ」と(不吉な影を払いのけるように)想像を中止した。いかなることがあっても、絶対に母を泣かせてはいけない。

その後しばらく、実際に見た走馬灯を懐かしく思い出していた。
私は中学生で、お寺の縁側に腰かけていた。どこのお寺であったか、なぜそこにいたのか、思い出そうとしてみたが、だめだった。盛夏の、夕暮れ時だった。外では油蝉がしきりに鳴いていた。
私は縁側に置かれた走馬灯にじっと目を注いでいた。それは古風な雰囲気の、本物の走馬灯だった。縦50センチ・横30センチほどの四角い箱型で、手すきの和紙が貼ってあった。和紙はところどころが黄ばんでいた。

金色に光り輝く馬や家や樹木が、和紙の上をすべるように流れていた。しかし電動ではないので、その動きはときどきゆるやかになったり、しばし止まったりした。中に入っているのは円筒形の回転部分だ。その円筒形には切り絵のように馬や家がカットされている。さらにその中心にはロウソクが立っている。……そうした仕組みを私は知っていた。ゆらゆらと揺れるロウソクの炎は小さな上昇気流を生み、その上昇気流は円筒形の天井にとりつけられた風車を回転させた。しかしなにぶんたった1本のロウソクが生みだす気流なので、風車は常に回転しているわけではない。

ベッドを降りた。
自由に行動できるのは、今日と明日の2日間だった。明後日は空港に向かわねばならない。
「……そうなんだけどね」と私は思った。もう美術館にも名所旧跡にも行こうという気分にはなれなかった。「オルセーはパス」と決めた。残念という気分は起こらなかった。ではどうする?
あてもなく徘徊。うん、それがいい。そう決めた。

【 つづく 】


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