【 藤田嗣治 】
シーレの作品を見た時に、私が最初に連想したのはある戦争絵画だった。
「アッツ島玉砕」。藤田嗣治(ふじたつぐはる)作である。
「藤田嗣治は知ってますか?」
「もちろん」
貞子はさすがに知っていた。
「いっときは、パリの画家で彼の名前を知らない画家なんていない時代もあったのよ。……でも今はね」
彼女はシーレに語りかけた。シーレは知らないようだった。
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藤田嗣治(1886 – 1968)を御存知だろうか。レオナール・フジタ(洗礼名)とも名乗っていた画家である。御存知ない方もこの作品「カフェ」の女性(写真)を見れば「あっ、見たことある」と思うかもしれない。陶器の人形のように白く透き通った肌。どこかけだるく物憂げでアンニュイな視線。

私は大学生の時にこの画家を知った。友人に藤田の熱烈なファンがいたのだ。「カフェ」(写真)を一見して「これはパリのカフェだな」と思い、「それにしても白い肌だな。輪郭線といい白い肌といい、どこか日本画的だな」と興味を持った。
藤田は中学生の頃からパリに強く憧れる少年だった。パリで絵の勉強をするのが彼の生涯の夢だった。その夢は挫折することなく続き、ついに1913年(藤田27歳)、パリのモンパルナスに住むようになった。モンパルナス。モンマルトルと似たような地名だが「パリの下町」といった風情の残る街である。家賃が安いので(当時も今も)多くの画家が暮らしている。
このモンパルナス時代が彼の「水を得た魚」的出世時代と言えるかもしれない。日本で学んできた洋画と当時のパリ画壇の作風は全く異なることを知り、衝撃を受けた。多くの画家と交流し、様々な画風を工夫し、ついに独特の画風をつくりあげた。
・油彩用の筆でなく面相筆を使った線描
・白く透き通ったような肌の表現
ざっくりと説明するとこのような特徴がある人物画だった。これがヒットした。サロンで好評を博し、彼の名声は高まった。1925年にはレジオン・ドヌール勲章を(フランスから)贈られている。27歳でモンパルナスに居を構えた無名の青年画家は、39歳で「パリで売れっ子の画家」となった。
しかし時代が藤田に災いした。フランスにおける彼の栄光に目をつけたのは、なんと日本の軍部だった。筆者は「なぜ日本の軍部などに力を貸す気になったのだろう」と恨めしく思うほどだ。(ピカソのように)日本に帰国せずパリに残っておればよかったのだ。愛国心だろうか。戦争に突入した母国の役に立ちたいとする忠義心だろうか。彼は帰国した。
1933年、日本に帰国。(藤田47歳)
1938年、従軍画家として中華民国に渡る。
1939年、日本に帰国。再びパリへ。
1939年9月、第二次世界大戦勃発。
1940年7月、ナチスがパリを占領する直前に、日本に帰国。(藤田54歳)
1940年の帰国後、藤田は従軍画家としての功績を評価され、「陸軍美術協会理事長」という、奇怪としか言いようがないような拝命を受ける。
「陸軍美術協会」……これはいったいなにか。陸軍の命を受けて戦地に赴き、戦争画の制作をする任務なのだ。先に述べた「アッツ島玉砕」はこの時期に制作された作品である。興味のある方は画像検索でぜひ御覧になっていただきたい。「悲惨」という言葉に尽きる壮絶なシーンである、とても(前述した)「カフェ」の作家とは思えないような作品だ。
この力作が彼に災いをもたらすこととなる。
日本は敗戦。藤田は「戦争協力者」の烙印を押され、GHQからは聴取を受けることとなる。
1949年、彼は逃げるようにして日本を去り。パリに戻った。藤田63歳。
ところがパリに戻ってみると、彼の友人画家たちはそのほとんどが逝去あるいは亡命という有様だった。現地の新聞には「亡霊が戻ってきた」とさえ書かれた。なんともひどい話だ。
1955年、彼はついに日本国籍を離脱。フランス国籍を取得。(藤田69歳)
1959年、ランスのノートルダム大聖堂で洗礼を受ける。
1968年、スイスのチューリヒで死亡。82歳だった。
もちろんここに述べた藤田嗣治は、彼が歩んだ激動の82年間のほんの一部を紹介するにすぎない。現在のパリの画家たちの間では、藤田の名はどの程度知られているのか、全くわからない。しかし私がパリで出会った貞子は「もちろん」という言葉で藤田を知っていた。
「パリの画家で彼の名前を知らない画家なんていない時代もあったのよ」
この言葉は強烈な記憶として、今も私の心に残っている。
【 つづく 】

