【 魔談541 】モンマルトルの画家たち(42)

【 慢性疲労 】

話を戻そう。シーレの話である。
・シーレの作品は奇怪な戦争画だった。ゾンビのような兵士の腕章に「Pervitin」の文字。
・彼の一族(ドイツ人)は「Pervitin」(ペルビチン)の製造に関わっていたらしい。……が、フランスに亡命した。
・彼の一族が(貞子のいる)倉庫アトリエの管理をしているらしい。
・彼が管理する中庭の温室には、ケシ(?)のドライフラワーがあった。

これらの錯綜する事実は(推理小説のように)絡み合った糸を根気よく丹念に解いていけば、やがて1本の糸となってその正体をはっきりとさせるのかもしれない。しかし私はそんなことをしにこの倉庫アトリエに来たわけではなかったし、そもそもペルビチンといいケシのドライフラワーといい、そんなやばいものに関わりたくはなかった。
しかしシーレに対しては彼の作品の感想を言わなければならない。そこで貞子を介して藤田嗣治「アッツ島玉砕」を伝えた。幸いと言うべきか、彼は藤田嗣治も「アッツ島玉砕」も知らなかった。
「藤田嗣治を調べるといい。とても参考になると思う」と彼に伝えた。貞子も笑顔でうなずいていた。

シーレは貞子の通訳で藤田嗣治の話を聞き、にわかに興味を募らせたようだった。貞子に頼んでペンと紙をもらい、それに数行の文字を書きこんだ。3枚のキャンバスを抱え、我々に向かってニヤッと笑い、さっさと部屋を出て行った。コーヒーもまだ残っていた。
「せっかちな人だな」
「そういう人よ。たぶん図書館に行ったのよ」
「ああ、なるほど」
正直なところ、シーレが出て行って私はホッとしていた。貞子とふたりでのんびりとコーヒーを飲み日本語で穏やかに会話している時間が、とても貴重な時間のように感じていた。

この日の朝は、パリに来て6日目の朝だった。私は慢性的な疲労感を感じていた。パリに来てからというもの緊張の連続で、もちろん楽しいひとときもあったが、その楽しさの中にあっても緊張はずっと途切れなかった。私はリラックスを切望していた。「本当にリラックスできるのは、日本に帰ってからだろうな」と思い始めていた。

「長い海外旅行に行っていた人が、日本に戻ってきたときはガチガチの愛国者になっていた」と聞いて笑ったことがある。それを聞いて笑ったときはまだ海外旅行の経験がなかったので「へえ、そんなもんかね」てな感じだった。いまは(異国にいることで)すごくそれがわかるような気がした。愛国心がどうこうというよりも、誰とでも普通に会話がしたかった。

「6日目……」と私は心中で何度も思った。6日目と7日目はパリで自由に動くことができる。しかし8日目はシャルル・ドゴール空港に向かわねばならない。「今日と明日はじつに貴重な2日間というわけだ」と思った。しかしどこそこに行くとかなにを見物するとか、そうした観光意欲はもはやまったくなかった。ではどう過ごしたいのか?

「今日はどうしたい?」
貞子が聞いてきた。その質問はあまりにもタイムリーだったので、思わず笑ってしまった。
「じつをいうと、かなり疲労しています」
彼女に対してはすっと本音を言うことができた。
「そうね。わかるわ。……じゃあ、すぐにホテルに送ろうか」
この申し出はじつにありがたいと思ったが、すでに酔いは覚めているし、夜ではないから、地下鉄に乗ってひとりでホテルに戻ることは十分にできると思った。そう思うと同時に、すぐにでもここを出てホテルに戻りたくなった。部屋に入って、かちりと鍵をかけて、シャワーを浴びて、ベッドにもぐりたかった。

そのとおりを貞子に伝えた。彼女にはそれができた。
「いいのよ。無理に引き止めたのは私だから、送ってあげる」
この申し出は嬉しかった。私は笑顔でうなずいた。
「ただし、もう15分ほど待ってくれる?」
「いいですよ。15分待つと、なにかいいことでも?」
「まもなくマリアンヌが来る時刻だから」
「ああなるほど」
彼女のことをすっかり忘れていた。
「デッサンは、結構うまくいったように思います」
貞子はちょっと複雑な笑みを見せた。女性はときどき、こうした複雑で意味深な笑みを見せることがある。

【 つづく 】


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