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光は波であり粒子である。100年ちょっと前までそんなことはありえないと考えられていた。もっとも優秀な物理学者でさえ波であると同時に粒子であるということがイメージできなかった。量子力学が確立されるまでは。
では人間であると同時に帽子であることは可能か。人間であると同時に帽子である存在をあなたはイメージできるか。できるのだ。『ホテル カクタス』(江國香織著)を読めば。
この作品の主要登場人物は、帽子ときゅうりと数字の2である。
彼らは人間なのかというと、これがひとくちには答えられない。あるときは確かに人間であるように思われるし、あるときはそうでないように思われる。人間とすると矛盾するときと、帽子とすると矛盾するときがあり、作中ではそれが容易に入れ替わる。
わたしたちの心のうちには人間と帽子が二重写しになったようなユニークなキャラが立ち上がる。
物語はホテルカクタスというアパート(名前はホテルで実態はアパート)で出会った3人がいったんの別れに至るまでの4年ほどを描く。
大事件は起こらない。いっしょにお酒を飲んだり、音楽を聴いたり、競馬に興じたり、日常のあれこれが語られるが、注目すべきは、ことあるごとに彼らの性格が強調される点だ。
「割り切れないのは2の性に合わない」「根っからおおらかに出来ているきゅうり」「帽子はたいていのことに無頓着」
さらに個人でなく彼らが属する家系(帽子の両親は帽子、きゅうりの家族はみなきゅうり、2の両親は14と7だが兄弟はみんな2)に共通する傾向も言及される。
「数字は独立独歩が基本」「南のきゅうりはみんな笑い上戸」「帽子というのはたいていそういうものですが、おじいさんは行方不明でした。帽子の両親も行方不明でした」
3人の性格は見事にまったく違う。これは出会ったときも、親友になった後も変わらない。
我々が人生経験を積み変わりうるように彼らも変わりうるがそこには限界がある。帽子は帽子以外のものにはなれない。2ときゅうりも、2ときゅうり以外のものにはなれない。その意味ではこの3つはわたしたちの「変われない部分」を指していると考えてもいい。
性格も、生きてきた時間や経路もまるで違う者たちが出会い、当然とまどい、しかし無理に自分を変えたりせずに互いを認められるようになる――野暮を承知で要約してみると、この作品が何気ない日常を語っているようでありながら実は奇跡を語っている、わたしたちが長く希求しながら得られずにいるものを言葉の力で現出させた物語であることがわかる。
そのために主人公たちは帽子ときゅうりと2でなければならなかったし、舞台はホテルでないホテル、「ホテルカクタス」でなければならなかったのだ。
もう一つ触れずにいられないことがある。わたしは『ホテル カクタス』を読み始めたとたん「石井桃子だ」と感じた。石井桃子本人の文章以外でこれほど石井桃子を感じたことはない。
ですます調である、語り手が前に出てくる、やや旧い言葉や凝った言い回し(「伊達者」「りゅうとした紳士」「ふさぎの虫にとりつかれる」)を使用する等の共通点はすぐ見えるが、それだけでこうまで似ないだろう。
石井桃子ファンの方はぜひ『ホテル カクタス』を読んでみてほしい。石井桃子調とは何かわかるかもしれない。
さらなる蛇足。佐々木敦子の絵に触れないのは無視しているわけではない。語る言葉が見つからないのだ。
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