魔の歌声(4)

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モーガン。記憶にある彼を勝手にそう呼んでしまうが、じつはぼくは彼の名前を聞かなかった。いまにして思えば「あれほど親切にしてもらって……」と自分の至らなさを少し反省している。彼はぼくにリンゴを半分くれただけでなく、ぼくのトラブルを知って、バスターミナルまで軽トラに乗せて行ってくれたのだ。そのおかげでぼくは当初の予定どおり松本駅近くのホテルに入ることができ、その夜は程よい喧騒の居酒屋の隅で、心ゆくまで熱燗を楽しむことができた。
その居酒屋でもしみじみと思ったのだが、人生は本当になにが幸いするかわからない。激痛に耐えかねて明神分岐点で座りこんでしまった時は、「捻挫をいささか甘く見たか」と反省しきりだった。ところがその半時間後にはぼくは軽トラに乗せてもらってバスターミナルに向かっており、しかもじつに興味深い妖怪の話まで聞くことができた。

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「日が暮れる」
モーガンは立ち上がった。
「晩メシに遅れるとカカアがシャラうるさい」
この「シャラうるさい」と言ったときの彼の渋面には笑った。ヌエの話をもっと聞きたかったが、ともかくリンゴの御礼を言おうと思い、ぼくも立ち上がった。その瞬間にズキンときた足首の激痛で思わず顔をしかめてしまった。彼はぼくの表情を見ていたのだろう。ニヤニヤしながらぼくの予定を聞き、そして言った。
「バスターミナルまで乗っけてやる。……どうせ帰り道だし、その様子じゃヌエの話をもっと聞きたいだろ?」
まったくそのとおりだった。ぼくは御好意に甘えることにした。初めて聞く妖怪の名前だ。「ヌエ」という発音のニュアンスもじつに面白い。もっと聞きたかった。

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「漢字があるのですか?」
大声で聞いた。デコボコの林道を走っている上に「大丈夫かこの軽トラは」と思うほどガタピシときしむ車だ。
「ある」と彼は言った。全開の窓、くわえ煙草。じつに悠々とした運転だ。しかし煙草に火はついていない。「よくくわえたままで器用に話ができるな」とぼくはちょっと感心して彼の横顔をチラッと見る。
「夜の鳥と書く」
「夜の鳥!」

ポケットから手帳と万年筆を出した。……穂高で徘徊中は、普段の生活ではまず浮かばない絵画イメージや、物語や、なにか得体の知れないインスピレーションが次々に湧いてくることがある。しかしそうしたものは即座に書き留めておかないと、次の瞬間には消えてしまう。なので腰のホルスターから拳銃を引き抜くような気合で、「手帳&万年筆」はすばやく出るようにしている。このことについてはもう少し書きたい話があるので……いずれ近いうちに。

手帳に「鵺」と書いて彼に見せた。ひどい揺れのせいで、ぼくの「くさび形文字」はほとんど判読不能に近い奇怪な図形となっている。
「そうそう」
「どんな妖怪なんです?」
「しらすけ」
「……え?」
「知らん」
これには笑った。
「じゃあ、どうして妖怪だとわかるのです?」
彼はぼくをチラッと見て笑った。
「昔からな……あれはヌエが鳴いとると」
「ははあ、なるほど。……実際は鳥なんですかねぇ?」
「さあ、な。……まぁずおっかねぇ妖怪だと想像してる方がええずら」

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ホロホロと回ってきた酔いを楽しみつつ、ぼくは居酒屋で彼のこの言葉を何度も反芻した。まぁずおっかねぇ妖怪だと想像してる方がええずら。じつにそのとおりだと思った。幽霊の正体見たり枯れ尾花。「尾花」とはじつはススキの穂である。追求したあげく「枯れススキ」を発見してがっかりするよりも、恐怖のイメージを膨らませてあれこれ想像していた方が面白い。それにしても、もう一度聞きたい声だった。なんとしても聞きたくなった。

……………………………………(つづく/次回最終回)

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