誰かのために 第六話

【第六話】

「……いやです。毎日、三部屋とも使うんです」

待ち続けた中井奈央子の答えは、取りつく島もなかった。

天を仰ぐ吉見、中井奈央子をギッと睨む山本善子、口をあんぐり開ける海野巌、ヘヘっと苦笑いを浮かべる村川章宏を前に、これまで同様不敵な笑みをたたえたままの中井奈央子。

小田原泉は、彼女のその眼の奥にはっきりと、敵意と侮蔑に満ちた光があることに気づき、これまで纏っていた寛容のベールを脱いだ。

「では、その理由を。あなたには伝える責任がある。自由は責任と引き換えにあるものです」

「……理由? 言う必要ないと思います。最初に頂いた利用規約には、全日全部屋借りるのはダメなんて、一言も書いてなかったので、私は、規約の範囲で借りようとしているだけです。借りる理由を告げなければならないなんて、書いてませんよね?」

同じ言語を話しているのに、全く意思疎通ができない人。言葉を尽くしても、意図が伝わらない人。こういう人を前にすると、人は攻撃するか、諦めるかしかできない。攻撃が破滅を招くことを、人は長い歴史の中で学んだ。だから諦める。

中井奈央子の言うことは間違ってはいない。

けれど、違う。

群れて生活することを余儀なくされる人間には、他者に対する配慮や遠慮や思慮が必要なのだ。筋道として間違っていないことが正しいとは限らない。曖昧で、不確実で、流動的な正しさを、そしてそれが人間関係の基になっていることを、そのような正しさのあることを、そもそも知ろうとしない人に伝えることは不可能だ。中井奈央子には、もう何を言っても無駄だ。

「わかりました。では、規約に〝一住人および家族によるレンタルルームの利用は、一日のうちの数時間のみ、一部屋に限る。それを超える利用を求める場合は、マンションの臨時理事会で議決の上、世帯過半数の同意があった場合のみ〟というような文言を書き添えること、そしてそれを来月の利用から適用することを、提案します。このことを近日中に全戸に諮りますので、よろしくお願いします」

これまで、気の利いた進行役を果たしていなかった吉見が、最後に締めた。
この短時間で、まだ若い彼は学んだのだろう。人との付き合いの中には、想像もつかないやり取りが、この先もおそらく待ち受けるということを。そして都度、自身の忍耐力や包容力、決断力が試されるのだということを。一人の若者がこの会でそれを知ったのならば、小田原泉にとってこの時間は全くの無駄ではなかったのかもしれないと思えた。

「お久しぶりです」

研究室でオンライン講義を配信し、二時間かけて帰宅した小田原泉に、エントランスホールで声をかけてきたのは、山本善子だった。

「……あ、お久しぶりです」

「今、お帰りですか?」

「ええ」

「お疲れのようですね」

「まあ……。体がリモートワークに慣れちゃったもんで。元に戻っただけなんだけど、やっぱり、ね」

「通勤、どれくらいかかるんです?」

「二時間くらいかな」

「長いですね」

「ええ。でもまあ、来月からは例のレンタルルームから配信できるし」

「ふふ。そうですね」

あの話し合いの後、レンタルルーム規約に例の文言が加わり、さらなる利己的な言動に備え、『一部の人間によって、多数の住人の多くの権利を奪う振舞いがなされた場合、即時にそれは制限され、従わない者には以後の利用を認めないとする』という文言が追記された。それによって、これ以上の中井家の非道な行いは阻止された。

「まさか、このマンションにあんな人がいるなんて、ねえ」

「今月いっぱいの辛抱です。ところで、山本さんは、どうされたんですか?」

「私ですか? 仕方がないので、今月は騒音の中、自宅でレッスンしてますよ。申し訳ないので、料金を半額にして」

「そうなんですか……」

「まあ、お休みにしてもよかったんですけど、休んでると生徒さんが離れちゃうから。実際、数は減ってしまったんだけど、〝来月からは静かな場所でできるから〟と言ってなんとか繋いでるんです」

「なるほど」

「まあ、今月だけ我慢してやりくりするしかないです。……あ、そうだ! 私、小田原さんにお聞きしたいことが……」

「なんでしょう?」

「小田原さんは、大学で、何を教えていらっしゃるのですか?」

「コミュニティ心理学です」

「それは、どういった内容なんですか?」

「その町で生活する人に、とりわけ心理面からサポートしたり、生活環境を整える手助けをしたり、公的に様々な制度があることをお伝えしたりするもので、いわば〝地域における、生活の質の向上のための支援の仕方を、主に心理的側面から研究する学問〟でしょうか」

「社会福祉士みたいな感じですか?」

「まあ、そうですね。社会福祉士は、福祉の観点からのアプローチですが、私たちのはあくまでも心理面からのアプローチというか、そういう違いはありますが」

「なるほど……。それって、思いやりポイントなんかとも、繋がったりします?」

「思いやりポイントって、あの、今、実質的に機能していない施策のことですか?」

「ええ、そうです」

「ああ……。まあ、相手を思いやるということは、生活の質の向上に繋がりますしね。関係があると言えば、そうですね」

「よかった! 実は、折り入ってお願いしたいことが……」

小田原泉は、ここで山本善子と立ち話をしたことを少し後悔した。
他者に対する敵意と侮蔑と悪意を孕む中井奈央子とは異なり、彼女はきっと悪い人ではない。おそらく善人の類だろう。でも〝悪い人じゃない〟イコール〝良い人〟とは限らない。悪い人じゃない分、なおざりにはできない。そこが面倒なのだ。このマンションで余生を過ごすことを決めて移住した身としては、これ以上、住人の中に敵を作りたくはない。だから、彼女に感じる煩わしさをひた隠しにして、努めて関心のある素振りをしながら、答えた。

「……なんでしょう?」

「ちょっと長くなるんで、うちに来ませんか? お時間、あります?」

首が直角になるくらい折れ曲がったまま、ひたすら眠り続けた電車通勤の後なので、本当は一刻も早く帰り、温かいお風呂に入って首の凝りを取った後、一杯ひっかけてゆっくりしたい。そんな気持ちをぐっと抑えた。

「ええ大丈夫です。あ、でも、いいんですか? お邪魔しちゃって」

「もちろんです。逆に、お疲れのところ、申し訳ないですけど」

「いえいえ」

小田原泉は、意を決して山本善子の家に向かうことにした。これ以上、面倒なことに巻き込まれたくはないな、と思いながら。

【第七話へ続く】

(作:大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

話が通じず、攻撃する筋道立った理由がやや不足な相手。ルールで守られた共同体では最強最悪な人物です。少なくとも、瞬間的には。諦めを知る大人・小田原泉にとっては忍耐と防衛あるのみ。そこへ一難去ってまた一難? 次の相手はなんと、レンタルルームを提案した山本善子。「思いやりんご」と何か関係のあることで小田原泉を待ち伏せしていたのでしょうか? 早くも面倒そうな匂いがしてきましたが、さて、どうなるのか。次回をどうぞ、お楽しみに。

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