【善財くんがゆく!】第八話 善財くん、初めて海を見る:第二の善知識・海雲比丘 (3)

その瞬間。

善財は、
ほんの一瞬だけ錯覚した。

目の前の海が、
巨大な“意識”のように見えた。

無数の声。

無数の記憶。

無数の願い。

それら全部を抱えながら、
なお静かに波打ち続けるもの。

海雲は、
それを見ているのだ。

十二年間ずっと。

ただ、
見続けながら。

善財は、
しばらく言葉を失っていた。

波の音だけが響く。

寄せては返す。

返しては寄せる。

同じことを繰り返しているようで、
まったく同じではない。

善財は、
ふいに気づいた。

海雲比丘は、
ずっと海を見ているのに、
一度も“退屈そうな顔”をしていない。

むしろ――

見れば見るほど、
新しい何かを発見しているように見える。

善財は思わず尋ねた。

「海を見続けて……
飽きないんですか?」

海雲は少し笑った。

「最初は飽きた」

「最初はなんですね……」

「うむ。
かなり飽きた」

海雲は頷く。

「三日目くらいで、
帰ろうかと思った」

善財は吹き出した。

海雲は真顔で続ける。

「だがな、
飽きるということは――」

波を見る。

「まだ“表面”しか見えておらんということじゃ」

善財は黙って聞いている。

海雲は砂浜へ視線を落とした。

「人も同じじゃ」

指で砂をなぞる。

「少し話しただけで、
“こいつはこういう奴だ”
と思い込む」

線を描く。

「だが、
本当に見続けると――」

波が来る。

線が消える。

「どこまでも奥がある」

海雲は静かに言った。

「世界は、
薄っぺらくない」

善財は、
胸の奥が少し熱くなるのを感じた。

海雲は続ける。

「海を見ておると、
そのことがよく分かる」

大きな波が砕ける。

「穏やかな日もあれば、
荒れる日もある」

また波。

「浅い場所もあれば、
底の見えん場所もある」

海雲は笑った。

「人の心も同じじゃ」

善財は、
善誓や善賢の顔を思い浮かべた。

父。

母。

番頭。

そして文殊菩薩。

(オレ、
あの人たちのこと、
本当に分かっていたのかな……)

海雲は、
そんな善財の心を見透かしたように言った。

「見続けよ」

善財は顔を上げる。

「分かったつもりになるな」

波。

「決めつけるな」

波。

「人も、
世界も、
もっと深い」

その声は静かだった。

だが、
波の音よりも深く胸へ響いた。

海雲はふいに空を見上げた。

海鳥が鳴きながら飛んでいく。

「……来るな」

「え?」

その直後だった。

沖の方で、
突然、
海の色が変わった。

さっきまで青灰色だった海面が、
一部だけ黒く染まる。

風が変わる。

善財は思わず身構えた。

海雲は立ち上がる。

初めてだった。

今まで岩のように動かなかった男が、
ゆっくりと砂浜へ降りていく。

その目は、
まっすぐ沖を見ていた。

「嵐じゃ」

低い声だった。

善財は海を見る。

遠くの水平線で、
黒い雲が渦を巻いている。

海雲は目を細めた。

「三隻おるな」

「え?」

「沖の船じゃ」

善財には何も見えない。

だが海雲は、
確信したように言った。

「まずい」

その瞬間。

海雲の雰囲気が変わった。

今までの、
ぼんやりした老人ではない。

巨大な海そのものと、
呼吸を合わせているようだった。

海雲は波打ち際へ立つ。

そして、
静かに両手を合わせた。

潮風が吹き荒れる。

空が暗くなる。

海鳴りが低く響く。

善財は息を呑んだ。

すると――

海雲が、
何かを“唱え始めた”。

それは経文のようでもあり、
歌のようでもあった。

不思議な響きだった。

長い。

あまりにも長い。

普通の人間なら、
到底覚えきれないような膨大な言葉。

だが海雲は、
一切つかえることなく唱え続ける。

その声に合わせるように、
波の動きが少しずつ変わり始めた。

善財は目を見開く。

(海が……
応えている……?)

海雲の声は止まらない。

ひとつの言葉が、
次の言葉を呼び、
さらに別の言葉へ繋がっていく。

まるで無限の網だ。

善財は、
突然理解した。

(この人の記憶は……
“丸暗記”じゃない)

違う。

全部が、
繋がっている。

だから終わらない。

だから崩れない。

海雲は、
世界そのものを記憶の海として扱っているのだ。

(まるで……
“世界クラウド”に
接続してるみたいだ……)

やがて――

沖の黒雲が、
わずかに逸れた。

海雲は、
静かに唱えるのを止める。

そして大きく息を吐いた。

善財は呆然としていた。

海雲は肩を回す。

「ふう」

まるで、
少し重い荷物を運び終えたような口調だった。

善財は震える声で言う。

「い、今のは……」

海雲は海を見つめたまま答える。

「声を合わせただけじゃ」

「海と……?」

「うむ」

海雲は笑った。

「世界は、
ちゃんと聞いておるからな」


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