デカローグ第6話:森のクマさん

殺してはならない

こちらはホテル暴風雨10周年企画・10話からなる連作短編『デカローグ』第6話です。
本話だけでもお楽しみいただけますが、これまでのお話はこちらです⇨第1話 第2話 第3話 第4話 第5話

今日もまた、どこかの市街地に熊が出たらしい。

テレビでは対岸の火事を見るかの如く、元お笑い芸人の司会者たちが、誰かの言葉を受け売りし、熊の恐怖を煽っている。さながらネタのように。

希美の関心は、彼らが伝える熊の怖さとか、遭遇した時の対処法などではなく、〝捕らえられた熊が駆除されたか〟の一点だけだった。そして、もし駆除されたと知れば、その自治体へ電話をかけ、「なぜ殺さなければならなかったのか」を訊くのだ。

「また電話したの?お母さん」

「したわよ」

家族には、「いいかげん、そんなことは止めろ」と言われている。自分は、熊に襲われることなど決してない都内のマンションに住み、実際のところ、熊と遭遇することなど想像さえできないくせに、熊のせいで生活を乱される人の気持ちはわからないだろう、と。

「そんなもの、わかるわけないわよ。だって、知らないもん、そんな田舎の生活」

「だったらやめなよ。お母さんには、何ひとつ、関係ないじゃない」

「でも、可哀そうじゃない」

「誰が?」

「クマさんに決まってるでしょ」

「いやいや。熊に襲われた人も可哀そうだし、その家族も可哀そうだよ。振り回されてる人もね」

「クマさんはね、別に人を襲いたかったわけじゃないの。人間が、クマさんの居場所や食べ物を奪ったのよ」

「人口が増えている昔ならいざ知らず、日本中で人口減少が叫ばれてて、人の住んでる領域はむしろ狭まってるんだよ。なんなら、熊の住むエリアのほうが拡大してるんじゃないの?居場所や食べ物を人間が奪ったってのは、どう考えてもおかしいでしょ」

「じゃあ、どうしてこんなにたくさん、クマさんが出てくるの?」

「単純に増えすぎたからじゃないの。温暖化の影響もあるかもしれないけど。植物の生育状況が変わった、とか」

「ほら、温暖化。それは人間がしたことじゃない」

「まあ、そうなんだけどさ。元々、数年に一回だか、熊の主食になってるブナの実が不作になるんでしょ?そのバランスがうまくかみ合わなかったとかも、あるんじゃないの?そういうのは、人間には関係ないじゃん。自然の摂理なんだから」

「ううん。人間が悪いの。食べ物盗られてお腹が空いたから町に出てきたの。それなのに殺しちゃうなんて。お母さん、信じられないのよ」

「私はお母さんが信じられないよ。じゃあお母さんは、私が帰り道に熊に襲われても、私じゃなく〝熊さんが可哀そう〟って言って、熊の味方するの?」

「それは……違うわよ。お母さんはいつだって、梨菜の味方よ」

「もう言ってることがよく分からない。お母さん、矛盾してるし、ものすごく自己中心的なこと言ってるよ。自覚ある?」

「何よ。味方だって言ってあげてるのに。お母さんは、無残に殺されるクマさんが可哀そうだと思ってるだけ。そんなことより、最近、どうなの?いい人いないの?お母さん、あなたの歳にはもう、あなたを産んでたわよ」

「ああ……。またその話?もういいよ。じゃ切るから」

希美は、市バスの運転手をしている2つ年上の孝司との間に、梨菜と柑太という2つ違いの姉弟を儲けた。どちらも今30歳手前で、それぞれ独立して暮らしているが、いずれもまだ結婚とは程遠いようだった。たくさんの期待をかけて育てたが、二人とも、思い通りには育たなかった。でも子育てとは、そういうものだろう。

子育てが一段落して、野良猫の里親ボランティアをしている友人から、子猫を1匹預かった。

可愛かった。余ったまま使うあてのない残された母性が、全て子猫に注がれた。
好きな漫画家の影響もあり、サバトラ柄のその子猫に「サバ」と名付けた。サバのために一日の大半を費やした。溢れる愛でサバが溺れそうになるくらい、希美は猫にのめり込んだ。
そしていつしか気づいたら、サバの他に、家に猫が4匹いた。

5匹の猫との暮らしは本当に楽しかったけれど、猫がいることによって、泊まりの外出は極力控えるようになった。幸いなことに、夫婦の実家はそれぞれ日帰り圏内にあり、介護が必要な時も泊りになることはなかった。

だけど50を過ぎ、孝司は、50歳以上の人だけが利用できるフリーパスを使って行く、鉄道旅にはまった。希美も一緒に行こうと誘われた。年老いて連れ立って歩く夫婦に、憧れていたのだと。でも、猫を置いて旅に出ることは、希美にはできなかった。

ある朝、ゴミを捨てようと玄関のドアを開けたら、専用ポーチに設置された門扉の内側、つまり希美の家の敷地内に、1体のぬいぐるみが落ちていた。

(何、これ?)

拾ってみると、赤ちゃんが最初に手にする「ファーストトイ」のような形状の、柔らかい素材で作られた、可愛らしいピンク色のクマのぬいぐるみだった。

(何でこんなものがここに? 誰かが落としたのかしら?)

よく見ると、ところどころに染みのようなものがついていて、片方の耳の根元がちぎれかけていた。

(えっ、もしかしてこれ、ゴミ?)

希美にとってはゴミでも、誰かにとって、ゴミではないのかもしれない。ライナスの毛布のように、大切な精神安定剤なのかもしれない。でも……。

(それをうっかり落とした? 大切なものなのに?)

戸建てとは異なり、マンションには共用の空間が多い。外廊下は共用の場所であり、そこに私物を置くことは原則としてできない。

ところが、例外がある。
個別の門扉の内側、一般にポーチと呼ばれる場所だ。

このスペースは、専用の場所として捉えられることも多い。
厳密には準共用のスペースなので、通行に著しく支障をきたす物や衛生上問題のある物、景観を損なう物を置くことはできないのだが、廊下から門扉によって区切られたその空間は、ベランダ同様、プライベート空間として認識されがちだ。

希美にとっても、ポーチは無論自分の部屋の一部だった。
門扉には、カントリー調のウェルカムボードの他に、鉢植えの植物をぶら下げるなどして、まるで庭のように飾り立てていた。

(人んちの庭先にゴミを捨てるなんて。このマンションにも、失礼な人がいるものね)

廊下ではなく、門扉で区切られた境界の内側、明らかに家の敷地の中に置かれたそれは、希美にとってただのゴミとしか思えなかった。希美は、手にしたゴミ袋の封を開け、そのぬいぐるみを押し込めて、再度封をぎゅっと閉めた。

家に戻り、出勤前の孝司に話すと、孝司はテレビから視線を外さずに「へえ。なんだろな」とだけ言い、希美の作った朝ごはんを黙々と頬張っていた。その視線の先には、今度の週末から孝司が一人で出かける旅先のグルメ情報が、映し出されていた。
希美は、孝司と向き合って食事するのがなんだか馬鹿らしくなって、猫たちの様子を見に行った。暫くすると、低い声がして玄関のドアの閉まる音がした。

週末を挟んだ次の可燃ゴミの日の朝、再び、門扉の内側にクマのぬいぐるみが捨てられていた。

(何これ? またなの? なんで?)

今度のクマは、前回よりもさらに汚れていて、大きくて、より使い込まれていた。

(気持ち悪い……)

素手で触るのも嫌だったが、わざわざ使い捨て手袋を部屋に取りに行くのも億劫だったので、希美は、爪先で持つようにしてそれを掴み、ゴミ袋の中に入れた。

(なんでこんなこと、されなきゃいけないの?)

ゴミ捨て場に向かう途中、管理人室へ寄って事情を話そうと思った。だが、まだ管理人の出勤前だった。

(そうだ! とりあえず、写真だけでも撮っておこうかしら。管理人さんが出勤して来たら、見せることもできるし……)

部屋にスマホを取りに戻ろうとした時、ゴミ収集車の近づく音がした。希美は戻るのをやめ、慌ててゴミ捨て場へと走り、持ってたゴミを職員に手渡した。すると、職員が声をかけてきた。

「奥さん、中のこれ、ぬいぐるみですか?」

「え? あ、そうです」

「うーん。このサイズならギリ大丈夫かな。でもこれより大きいのは、可燃ごみじゃなくて、粗大ごみの日に出して下さい」

「……あ、はい」

部屋へと戻りながら、希美は少しずつ怒りが湧いてきていた。

(なんで私が、注意されなきゃいけないの? 私のゴミでもないのに)

誰かに怒りをぶつけたくても、夫の孝司は旅に出ていて、戻りは二日後だ。娘の梨菜は、あれから電話に出るどころか、LINEの既読さえつかない。

モヤモヤしたままリビングに戻ると、付けっ放しのテレビから、昨日、ある地方都市に出没した熊が駆除された話が聞こえてきた。希美はすぐに受話器を取り、その自治体に苦情の電話を掛けた。

その翌日は、二週に一度の資源ゴミの回収日だった。

大きな袋を二つ抱え、玄関の扉を開けたら、思わず目を見張るほどの大きなクマのぬいぐるみが置いてあった。外資系のメガストアでよく売られたりしているやつだった。

「もうっ! 何これ!! 出れないじゃないの!」

思わず声が漏れた。

それは、玄関のドアと門扉の間にすっぽりと嵌り、希美の行く手を阻んでいた。
それでなくても両手に大きな袋を持っている。身動きが取れず、一度、部屋に戻ってゴミ袋を置いて来ざるを得なかった。

「お父さん! ちょっと来て!」

そう呼びかけて、孝司がまだ旅から戻ってきていないことを思い出した。こんな時に居ないなんて。
希美はイライラしながら、門扉にぶら下げた鉢植えや、ポーチに置いたベンチにクマがぶつかって、鉢をひっくり返したりしないように、細心の注意を払いながら、汗だくになってその巨大なクマをどうにか門扉の外側に追い出し、部屋に戻って袋を掴み、ゴミ捨て場へと向かおうとした。その時だった。

「ちょっと! こんなところに、そんなの置かないで下さいよ」

声がして振り返ると、30代くらいのワイシャツにネクタイ姿の男性が睨んでいた。

「いや。私のじゃないんですよ」

「え? だって今、あなたの家から出してきましたよね?」

「家の前に捨てられてて……」

「捨てられた? これを? 誰が?」

「わからないです」

「いやいや。人んちの前にこんなもの捨てる人、いないでしょ。適当な嘘、吐かないで下さいよ」

「嘘じゃないです。これで3回目なんです。段々サイズが大きくなって……」

「誰が何のためにそんなことするんですか? もういいから。通れないから退かして下さい」

「退かしてって……。どこに?」

「自分の家に戻すか、ゴミ捨て場へ捨てるか、じゃないですか」

「だって私のじゃない……」

「でも今、ここに捨てたのは、あなたです。だったら、あなたが責任をもって片付けるべきでしょう?」

男はそう吐き捨てるように言った後、「じゃ僕、急いでるんで。お願いしますよ」と言って、クマを押し退けて無理矢理廊下を通り、エレベーターの中に消えていった。

「退けてって言われても、こんな大きいの、私一人じゃ、無理……」

希美の声は誰にも届くことなく、空しく廊下に響いた。

(どうしよう。でも、まずはゴミを捨てなきゃ。回収、来ちゃうから)

希美は、とりあえずクマをそのままにして、手にした袋を握りしめ、ゴミ捨て場へと向かった。二、三歩進んだところで、背後にふと視線を感じた。

振り返ると、廊下を明らかに塞いでいるクマと目が合った。
仕方なく一度戻り、汗だくになりながら、男が言ったようにクマを自分の家の門扉の中に置き直し、ゴミを捨てに行った。

ゴミ捨て場では、収集車が持って行きやすいように、管理人がゴミをまとめているところだった。希美は、クマの話を相談した。

「何でそんなこと、するんでしょうかね?」

管理人は困った顔をして希美を見つめた。

「わからないです。私が一番知りたいです」

「……心当たりとか、ないですか?」

「ないです。そんなもの。とにかく困ってるんです。どうしたらいいですか?」

「そうですねえ……。そんなことは管理規約にないですからね。後でちょっと会社に訊いてみます」

「お願いします。ああ、でもとりあえずあれをなんとかしてくれません? 私、あのままじゃ部屋にも入れないので」

「わかりました。じゃあちょっと見せてください」

管理人は、門扉とドアの間に挟まるように置かれた大きなクマを見ると、困惑した。

「こりゃすごいですね。想像してたよりも大きい」

「感心してないで、なんとかしてください」

「すいません。で、こういうことが、3回もあった、と?」

「はい。でも前の2回は、ここまで大きくなかったです」

「写真とか、ありますか?」

「それが⋯⋯。1回目は訳わからず捨てたので、なくて、2回目は撮ろうとしたんですけど、収集車が来ちゃって慌てて捨てに行ったので、撮れなくて⋯⋯」

「そうでしたか。うーん。もう一度確認しますが、これ、お宅のではないんですよね?」

「だから、そう言ってるじゃないですか!」

「どなたかの落とし物、というわけでは……」

「人の家の前に? わざわざ門扉を開けて? その間に落としていきます?」

「まあ、違いますかね」

「ただの嫌がらせだと思います」

「嫌がらせをされるような心当たりがあるんですか?」

「そんなもの、あるわけないじゃないですか! とにかく、なんとかしてください!」

「わかりました。とりあえず台車持ってきます」

管理人はそう言うと、台車を取りに一階の管理人室へと戻っていった。

希美は一人、クマと対峙し、管理人の戻りを待っていた。

するとそこに、上階から外階段を母子が下りてきた。
マンションでは、朝の通勤時間帯にはエレベーターの利用が増えるので、よほどの高層階でもない限り、待ちきれなくて階段で下りることを選択する住民も多い。

「あ、クマさんだっ!」

子どもはそう言うと、母の手を振り払い、希美の家の前のクマの元に駆け寄ってきた。

「おばさんの?」

「違う」

「ふうん。じゃあ、誰の?」

「わからない」

「えーっ! 落とし物?」

「たぶん」

「落とし物だって、ママ。こんな大きいの落とす人、いるんだね」

傍らの母親らしき女性は、頻りに腕時計を見て、適当な相槌を入れている。

「落とした人、見つからなかったら、どうするの?」

クマを見上げていた子どもは、視線を希美に転じ、尋ねた。

「さあ。ゴミになっちゃうかもね」

「ゴミになっちゃうの? そんなのダメだよ」

「でも、誰も持ち主いなかったら、そうなるしかないのよ」

「かわいそうだよ! このクマさんは森のクマさんと違って、引っ搔いたり噛みついたりしないよ。ねっ、ママ」

子どもは一度母親のほうを見たかと思うと、すぐに向き直り、ギッと希美を睨んだ。
その視線が痛くて、希美は思わず目を逸らし、早く管理人が戻ってくることを願った。だが、その願い空しく、管理人は一向に戻ってくる気配がなかった。

希美の希望を斟酌することなどなく、子どもは暫し思案していたかと思うと、晴れ晴れした顔になって、言葉を続けた。

「もしかして、クマさんは、おばさんのところに遊びに来たんじゃないのかなあ?」

「えっ? 遊びに?」

「うん。そうだよ!きっと。落とし物なんかじゃないよ。おばさんの家に遊びに来たんだから、捨てたりしないで、おばさんが飼ってあげたらいいじゃない。引っ掻いたり、嚙みついたりするクマさんは、動物園の人に連れてってもらわないといけないけど、このクマさんはそんなことしないんだから、おばさん、ちゃんとおうちに入れてあげなきゃダメだよ。ねっ、ママ、そうだよね?」

「…⋯え? ああ」

子どもの母親は、気もそぞろで何かをスマホで調べていたと思ったら、顔を上げ、子どもに向って言った。

「急がないと、次のバスがもう来ちゃう。遅刻しちゃうよ。ほら行くよ」

母親は子どもの手を引っ張り、そのまま階段を駆け下りて行った。

一人残された希美は、その大きなクマのぬいぐるみを見上げた。つぶらな黒い瞳が、光ったような気がした。

(作:大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

大日向峰歩作『デカローグ』第六話、いかがでしたでしょう。この作品は、ホテル暴風雨10周年記念企画「10」にちなんだ10話連作の物語です。ポーランドの巨匠・クシシェトフ・キェシロフスキ監督の『デカローグ』リスペクト(くわしくは連載予告のエッセイを)。さて今回は十戒の第六、

6.殺人:殺してはならない

に関連した内容。「殺人」ばかりか「殺熊」を許せない希美の話にはじまり、うん、こういう人いそう……と思わせ、最後は「殺」の定義を他者によってさらに広げられてしまうという、意外な展開でした。「許せない」「これは到底受け容れられない」ということが誰にでもあると思いますが、その境界がぐにゃっと歪んでくる瞬間が鮮明に描かれた、峰歩さん初のホラーファンタジー!? 毎回意外なエピソードが飛び出す『デカローグ』も後半です。次回もどうぞお楽しみに!

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