心を紡いで言葉にすれば 第16回:群れることの意味

13回にわたって綴られてきた『刺繍』いかがでしたでしょうか?
もし少しでも楽しんで頂けたのなら、幸いです。
前回の『誰かのために』同様、また〝授業評価〟的なアンケートを実施しようかと目論みましたが、毎回「ねえねえ、どうだった? 良い?悪い?」と訊くのもあれですし、やめました。
でも、授業評価は毎学期行うものでもありますし、もしかしたら皆さんのほうに「ちょっと一言モノ申したい」とか「独り言だけど解き放ちたい」というようなものがあるかもしれませんので、いつものページ末にある投稿フォームではなく、〝目安箱〟的なものを設置しておくことにします。よろしければ、是非下記↓にアクセスしてみてください。

ホテル暴風雨8080号室で連載されていた『刺繍』についてのアンケートです。 今後の〝独り言〟活動における意義と意欲の向上のため、もしよろしければ、アンケートにご回答いただけると幸いです。

さて、次の物語は何にしようかと思い、あのお方に再度ご登場いただくことにしました。
サイさんです。

『誰かのために』の後、『刺繍』のお話が始まるまでのわずか2週間、かつてある人を思い浮かべながら書いた『はいのサイさん』という短いお話を、ちょっとした箸休め的にお届けすることになった時、改めて読み返してみてふと思ったんです。

サイさん、コロナの頃、大変だっただろうなあ……って。

そう思ったら、居ても立ってもいられなくなり、頭に浮かんだサイさんたちの様子を描写しました。

そうして続編を書き終えた時、私は「とても大事だけど、それが何かまだよくわからなくて、形にならない何か」に近づけたような気がしました。気がしただけですが。

そして、例えばそれが昆虫の触角だとしたら(例えが唐突ですみません)、それがふと私の肌をかすめたような感覚に、先日陥りました。

この『心を紡いで言葉にすれば』第3回でも綴った「集団思考」という人間の心理現象について、授業で話した際のことです。
授業後に、学生からある質問を受け、私はうまく答えることができませんでした。

学生は問いました。
「集団思考の話を踏まえると、集団の有効性とは何なのか?」

授業で散々「人は群れたってろくなことを考えつかない。三人寄れば文殊の知恵にはならない」的なことを言い続けてきたツケが回ってきたのでしょうか。

思い返せば、私は事ある毎に、うっすらと「他者存在の利己的利用以外の価値はゼロ」的な発言(←暴論)を呟いてきたような気がします。

人生の中で、群れの中で嫌な思いをすることはあっても、楽しい思いをすることはあまり記憶にないから、心の奥底でそういう思いが恨み節みたいに溜まっていて、言葉の節々に出てしまったのかもしれません。

〝群れ〟が100%無価値かというと、そうではないこと、頭では理解しています。

実際、群れてるほうが楽だし、安全だし、得なこともある。
楽しかったことだって、きっと、ある。
群れている羊は可愛いし、もこもこしたその背中の海にダイブしたい欲求が湧いてくるし、群れているウサギの中にいるだけで、ニヤついた顔はなかなか元に戻らなくなる。
……おっと、脱線。人間の話でした。

事実、『枯山水』は一人でやってもつまらない。
私は『枯山水』というボードゲームが大好きで、ボードゲームカフェなる素敵な場所で時折このホテルのオーナー雨梟殿と興じておるのですが、『枯山水』に限らず、ボードゲームの類は、概して、一人でやっても楽しくないし、人目が気になるし、すぐ飽きる。
一人では食べきれない量の食べ物を、誰かと分けることでチャレンジできることもある。
ショーン・ペン監督の名作『イントゥ・ザ・ワイルド』のラストで、主人公が本の行間に書き込んだあの言葉に、打ち震えたことを覚えている。
平時には群れなど必要とせずに暮らしていけても、有事にはそうはいかないこともわかっている。

そもそも私は、心理学という学問を通して「他者なんて、要らないからね」ということを伝えたいわけではなかったはず。
むしろ逆。「他者とうまくやっていけなくても構わない」じゃなくて、「他者とうまくやっていけるためのツールがここにあるよ。だから使ってね」ということを伝えたくて、この20年、心理学を伝道してきたのではなかったのか。
その大前提には、「どうにかして他者とうまくやっていってね」という願いや思いがある。

それなのに、私の中の浪花節ならぬ恨み節が作用して、授業を通して学生をして「集団の有効性」を見失わせてしまった。

なんとかして取り繕おうと、親和欲求を満たすためとか、自身の合理的妥当性を担保するためとか、〝それなりの〟回答はした。でも、答えながら私は、ずっと「違う。そんなことが言いたいんじゃない」と思っていました。じゃあ、何か?というと、それが出てこない。
「歳とるってやだなあ」と、単純に記憶の問題のせいにしようとしましたが、そうじゃないのは自分が一番わかっていて……。

それがいったい何なのか?
モヤモヤしながら教室を立ち去る私の脳裏に、触角の先が〝ツン〟と触れたような気がしたんです。
その時心に浮かんだのは、サイさんの姿でした。昆虫の触角だと思っていた、その尖がったものは、サイさんの角だったのかもしれません。

でもまだ言語化するには、もう少しだけ時間がかかりそうです。
サイさんの後日談の物語をお伝えした後、再度考えてみたいと思います。

(by 大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

大日向峰歩作『心を紡いで言葉にすれば』第16回、いかがでしたでしょう。思えば昔のこと、峰歩さんと私は「まったく他者存在というやつは実に有害なヤツだ、生きにくさの元凶だ」などと、しょっちゅう二人仲良く語り合うという、微笑ましくもちょっとおかしい若者でした。そんな会話の自己矛盾に、さすがに気付いていないわけではなかったのですが、それくらい「集団」との距離感は重大な問題だったのでしょう。そこは今でも変わりはない(少なくとも私は)ですけれど、峰歩さんはどうなのかな? 次回はサイさんの再登場です! どうぞお楽しみに。

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