
女性は、東京から来た東と名乗った。
下の名前は、太平洋の洋の一文字で〝よう〟と読むらしい。ホームスパンはおろか、織り物も手紡ぎも初めてとのことだった。
「どちらでここをお知りになったの? あまり宣伝はしてないのだけど」
恵美子はそう尋ねながらカップに珈琲を注ぎ、東の前に置いた。
「昨日、クラフトフェアに行ってたんです。そこでこれ、見つけて」
そう言って東が鞄から取り出したのは、恵美子が委託展示した例のマフラーだった。
「あっ、これ。先生の」
「あら」
東は小さく頷きながら、「やっぱり、間違いないんですね。先生が織られたもので」と言った。
「ええ。そうよ。私が織りました。糸から紡いで」
そのマフラーは、原毛好きな恵美子にしては珍しく、毛から染めて紡いだ糸で織ったものだった。
濃い茶や濃淡の異なるグレー数色から成る経糸と、深い紺色の緯糸。
そのひとつひとつの色にも拘り、納得いくまで工夫して染めたのだ。
普段あまり染めたりしない恵美子にとって、それはなかなか容易な作業ではなかったが、師であった堀への思いを込めて作った。それだけ特別なマフラーでもあった。
「よかった」
東はそう言うと、手にしたマフラーをぎゅっと握りしめ、改めて恵美子のほうに向き直って告げた。
「私、こういうの織りたいんです。いいえ。これが織りたいんです」
「これって……。同じのってこと?」
恵美子より早く反応したのは、千与子だった。
「それ、結構難しいですよ。時間もかかるし。体験で、一日とかで作れるようなものじゃないです。ましてやあなた、織りも紡ぎもやったことないんですよね?」
東は首を左右に振り、強い口調で言った。
「体験とかじゃなく、通いたいんです。これを織るためなら、何度でも来ます。何年かかっても、と言いたいところなんだけど、そんなに悠長なことも言ってられなくて……」
その言葉には、切迫感が漂っていた。
「えっ、通うって東京から?」
「はい」
「へえ……」
最初は恵美子の代わりに、冷やかしの一見さんの戯言を毅然と払い退けようとした千与子だったが、東の真剣な眼差しに圧倒され、それ以上の言葉を呑んだ。
入れ替わるように恵美子が口を開いた。
「私ね、織りをやって30年以上になるの。これまでたくさん織ってきたけれど、あなたが手にしているそれは、特別なの。うまくできたって意味じゃなくて、まだまだ気になるところのほうが多いぐらいだけど。でもね、間違いなく一番時間をかけて丁寧に作ったものではあるの。これまで学んできた全てを注ぎ込んで。私は決して器用なほうではないから、私よりも早く作れるかもしれないけれど、それでも、それと同じものを作るというのなら、そのくらいはかかると思ってほしい」
「30年、ってことですか……」
あまりにも想像を超えた長さだったのだろう。東は目を泳がせて俯いた。
一方、千与子は、恵美子の言葉で一度は呑み込んだ言葉を吐き出すように続けた。
「今すぐそれを織りたいってこと? いつかはそこを目指すにして、とりあえず普通に、基礎から始めるじゃダメなの?」
それまでの強気な姿勢から一転し、あたかも千与子の提案を検討するかのように、東は、手にしたマフラーに一度視線を落とし、何かを思い、さながらそれを振り切るように首を振り、言った。
「私は今すぐこれを織りたいんです。週末だけじゃ足りないなら、仕事も休んで通います。ただ、30年は……。織ったものをある人に見せたいので。その人はたぶん、そこまでは待ってくれない……いや、待ってるというわけでもないんだけど、とにかく時間が。できればその半分、ううん。10年、いや、5年くらいでなんとかできませんか? 織り物とか手紡ぎの細かいことはいいので、この布を織ることだけ、それだけ教えて下さったらそれで……」
言葉を遮ったのは、恵美子だった。
「ここでそれを織るには、ホームスパンにおける基礎的なことは全て学んでもらいます。そうじゃないと織れません。全部繋がってるの。ここだけ切り取って学べるとか、そんなものではないのよ」
東は恵美子の顔をじっと見つめ、黙って俯いた。
「ごめんなさいね。一つ一つ学んでいただくやり方しか、私は教えられないの。それが嫌だと言うのなら、他の教室を当たって下さい」
「でも私はこの布が……。これが織りたくて。先生の織ったこれが」
余所に行けと言われ、明らかに動揺し落胆する東を見て、千与子が助け舟を出した。
「それと同じのって言うけど、その色がいいってこと? それともその織り模様がいいの? もし単に色がいいって言うのなら、手紡ぎじゃなく、市販の糸で織るとか、平織にするとかでは駄目なの? 平織なら割とすぐ織れるよ」
「市販の糸と、この糸がどれくらい違うのかもよくわからないですし、平織っていうのがどういうものかもわからないんですけど、これと同じものを、私は一から全部、作りたくて……」
先ほどまでの勢いとは打って変わり、東は、どこかおどおどした様子で答えた。
その様子を見て、恵美子が問いかけた。
「ねえ、どうして同じじゃないとダメなの? そのマフラーに何があるの? 誰かに見せるって言ってたけど、誰に見せたいの? 何か理由があるのなら、教えてくれないかしら」
暫く俯いていた東は、何かを吹っ切るように顔を上げ、じっと恵美子たちを見つめたかと思ったら、おもむろに鞄の中からスマホを取り出し、中に記録されている写真を開いて見せた。
「何?」
恵美子より先に、千与子が覗き込んだ。そこには、布の端切れが写っていた。
「え? よくわかんない。大きくして、いい?」
千与子はそう言うと、指で写真を拡大した。
「織り物っぽいけど……」
「そうね。ホームスパンの背広地みたいね」
かけていた眼鏡をずらし、恵美子が画面に顔を近づけて呟いた。
「そうです。ホームスパンの背広の生地だって言ってました」
「誰が?」
「祖母です。私の」
「じゃあこれは、あなたのおばあさまの?」
「違います。佐々木いとさん。宮古にお住まいのおばあさんのです」
「宮古? あなたのご親戚?」
「いいえ。そういうんじゃありません。ただの知り合いというか。知り合いでもないか……」
「え? どういうこと?」
「一度しか会ったことないし、向こうは私の名前とかも憶えてないかもしれません。でも私は、いとさんのために、これと同じ布を作りたくて……」
そう言うと、東は、昨年の夏に起こったことを話し始めた。
註:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『雨を待つ布』第2話、いかがでしたでしょう。一度しか会ったことのない、知り合いとも言えないおばあさんの布の写真を取り出した東。それと同じ布を、東京から仕事を休んででも通って織りたい? 謎めいた物語の始まりです。次回をどうぞお楽しみに!
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