
東は、鉄道で旅をするのを趣味としていた。
中でも、三陸海岸を南北163キロに渡って走る三陸鉄道、通称『三鉄』は、東が一番好きな鉄道会社であり、そこに広がる車窓風景を眺めるひとときは、何にも代えがたい幸せな時間だった。
昨年の夏、東は岩手を鉄道で巡る一人旅をした。
まずは、東京駅を朝7時に出発する新幹線に乗り、新花巻へ出て、花巻線を特定の週末に一日一往復だけ走る、憧れの『SL銀河』に乗り換えて、釜石へ。
そこから大好きな三鉄に乗り換えて、宮古へ。
駅前のビジネスホテルで一泊した後、駅から歩いて15分のところにある『魚菜市場』で朝食を採り、次の目的地である久慈へと向かう列車に乗るため、駅へと歩いている途中、道端で座り込む一人の老女を見つけた。
その日も朝から暑かった。
じりじりと照り付ける太陽。8月とは思えぬ湿度。持っていたペットボトルの水を飲み干し、コンビニで水を買い足したところだった。
老女を見て、咄嗟に「熱中症だ」と思った。
老女が、夏とは思えぬ厚着をしていたことも気になった。
でも通り過ぎた。警戒されたくなかったからだ。
東は、高級牛肉で有名な松阪で生まれ育った。地元は田舎だった。
隣近所に誰が住んでいて、何をしている人か、みんな知っているようなところ。道で会えば、気軽に話しかけ、助け合う町。
だから、進学で上京した時、その調子で周りの人に声をかけた。
その日と同じように暑かった、ある夏の日、道端にへたり込んでいるおじいさんを見つけた。躊躇うことなく声をかけた。咄嗟に体が動いたのだ。
でもおじいさんは、不安と不信が入り混じったような眼で見るだけで、東の手を力なく振り払った。それでも手を差し出す東を見て、大声を挙げた。周りを歩いていた人が皆、東を見た。それはまるで、加害者を見る眼差しだった。
あの時の経験が、その日、見て見ぬ振りをした行為に繋がった。
またあんな目で見られるのが怖かった。
次の交差点の信号は赤だった。
あの時、もし青だったら、きっと東はそのまま駅構内へ入り、三鉄に乗って、次の目的地へと向かったのだろう。でもその時、信号は赤だったのだ。
東は、元来た道を戻り、老女に駆け寄った。
さっきコンビニで買ったばかりのミネラルウォーターのキャップを捻って、老女に渡した。
「まだ口付けてませんから。よかったら、どうぞ」
老女は「おおきに」と言って、一口含んだ。
東は、持っていたハンディ扇風機を回し、老女に向けた。
「こったにちっけえのに、風っこ、来るんだなぁ」
老女はそう言うと、ニコッと笑った。
その後、駅に行くと言う老女に寄り添い、駅へと向かった。
駅の北側にある駅前広場から、線路をまたぐように付けられたクロスデッキを渡ると、そこに建屋が繋がっていた。
『イーストピアみやこ』というその真新しい建屋は、東日本大震災による津波で被災した市役所や保険センターが入る複合施設で、スタジオや会議室、ホールばかりか、カフェや小さな子どもの遊び場、防災に関連する資料や市の情報を展示するスペースもあった。
老女は、二階の端にあるカフェに入ると、冷房の効いた店の、窓際に設置されたカウンター席にゆっくりと腰かけた。窓からは、眼下に駅のホームが見え、とても見晴らしがよかった。
「ああ、ここ、列車がよく見えるんですね」
老女は満足気に微笑み、「んだ。わだすねぇ、汽車見るの、好きなのよ」と言って、手押し車を横に退かして、自分の隣にある椅子を無造作に引き出し、「おめさんも、ねまっとでんせ」
と、声をかけた。
最後の単語はよくわからなかったが、状況から「座ったらどう?」と言われたのだと東は思い、勧められるがまま腰を下ろそうとした。
けれどもそのままでは幅的に無理で、さらに椅子を引き出すことになった。
寄せられた老女の手押し車と引き出した椅子がぶつかり、手押し車の腰かけ部分に乗せられた、薄い座布団が落ちた。
「あっ、ごめんなさい」
拾い上げようとして、その座布団の生地が独特の風合いなのに気づいた。
「これ、素敵な布ですね」
老女は頷くと、大事そうに抱えた小さなバッグから、似たような風合いの一枚の端切れを取り出して見せた。
「この座布団と同じ布?」
「んでねえよ。こりゃお守りだぁ」
「お守り?」
「んだ。お父さんが着でだ上着のちょっことした切れっこなんだ」
「きれっこ?」
「布の端っこのこと」
「ああ、端切れ。でもなんで端切れなんですか?」
東が発したこの問いに、老女は顔を曇らせた。
瞬間「しまった」と、東は思った。でも既に遅かった。
「流されでしまったからねぇ、津波さ。みんな持ってがれて、なんも残んながったのよ。お父さんがずっと着でだこの上着も、ほれ、この通り」
予期した通りの展開になってしまい、迂闊に問うた自分を責めながら、東は返答に困っていた。簡単に共感を示す人間にはなりたくなかった。
東の心には、小学生の頃に経験した、苦い思い出があった。
註:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『雨を待つ布』第三話、いかがでしたでしょう。東が出会った「布」の物語がはじまりました。苦い思い出がよみがえり、躊躇しながらも差し伸べた手を老女に取ってもらえた、それが東に安堵を含む暖かい気持ちをもたらしたようですが、同じ布をどうしても織りたいとこだわった理由とは? 次回をどうぞお楽しみに。
作者へのメッセージ、「ホテル暴風雨」へのご意見、ご感想などはこちらのメールフォームにてお待ちしております。