また、死に方が悪くてその後も状況は悪いままという人がある。
これは生前に仏教を信じなかったばかりでなく、ただひたすらに悪いことばかりしておった人じゃ。
一方、座ったまま、あるいは立ったまま静かに臨終を迎える人もおる。
これは修行による定力(じょうりき)、つまり精神統一の賜物であって、まさしく生死自在の境地と言える。
真の悟りを得ていても定力が足りていなければ生死自在の境地には到れないのじゃが、臨終の様が悪くなることはない。
そして、たとえ生死自在の境地に到れていなかったとしても、生死のいずれにも執着していないというのであれば、それはもう立派な大乗の修行者じゃ。
阿羅漢の境地に到った人は臨終の際に振動したり火を発したり消えたり現れたりといった十八種の変化を見せてまさしく生死自在といった感じになるが、それでも真の悟りを得た人とは呼べない。
歴代の師匠たちの中には事件や事故に巻き込まれて不慮の死を遂げた人たちがおるが、これはその様を後進の修行者の役立ててもらうという意味があるので、死に方が悪いと言うべきではない。
小乗の修行者には声聞(しょうもん:教えを聞いて悟る)と縁覚(えんがく:縁によって自力で悟る)の二種があるが、声聞の人たちも火葬後に舎利が生じるとされておる。
しかし、あくまでも小乗なので真の悟りを得た人とは呼ばない。
大乗の修行者ではない一般人でも、生涯を通じてひとつのことに徹底的に専念した人は舎利を生じるという。
これまでに現れた仏たちは皆、必ず死後に舎利を残している。
歴代の師匠たちは、舎利を残したり残さなかったり。
臨終の様はよかったのに舎利が残らない人もおる。
実のところ、舎利がいったいどのような法則に基づいて生じているのかは、まだ解明されておらんのじゃ。
宝種経には、「真に悟りを得たものの舎利は、決まった形を持たない般若(智慧)から生み出される。つまり舎利の本体は般若なのだ。そして舎利は般若の仮の姿に過ぎない。だというのに愚か者どもは形のある舎利を信じて、形のない舎利を信じようとしない」と書かれておる。
また、佛光禅師(蒙古襲来時の建長寺住職。第十五問に言及あり)はこう言っておられる。
「仏も人も幻だ。もしも実体があるように見えるというのであれば、それは眼にホコリが入っているのだ。ワシの舎利は既に天地を包み込んでいる。火葬後の灰をかきまわして探すようなマネは謹んでもらいたい」
というわけなので、確かに舎利が生じるのは吉相と言えるが、それだけをもってその人が真の悟りを得ていたかどうかはわからないのじゃよ。
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