善住比丘は続ける。
「怒りも」
風が鳴る。
「悲しみも」
雲が揺れる。
「迷いも」
龍が空を巡る。
「本来は、
世界の流れのひとつに過ぎぬ」
善財は息を呑む。
その瞬間だった。
龍の動きが、
変わった。
巨大な身体が、
ゆっくりと空を旋回し始める。
先ほどまでの暴走ではない。
まるで。
音楽へ合わせるように。
善財は目を見開いた。
黒雲が裂ける。
その隙間から、
光が差し込んだ。
龍の鱗が、
金色に輝く。
空の音楽は、
さらに大きくなる。
天。
風。
雲。
龍。
光。
全部がひとつの巨大な流れとなって、
空を巡っていた。

善財は、
知らず涙を流していた。
理由は分からない。
ただ。
美しかった。
あまりにも。
善住比丘は、
そんな善財を見て静かに頷いた。
「見えたかの」
善財は、
しばらく答えられなかった。
やがて、
小さく呟く。
「……はい」
風が吹く。
空の音楽が、
ゆっくりと静まっていく。
龍は、
もう暴れていなかった。
巨大な身体をゆったりと揺らしながら、
雲の向こうへ消えていく。
黒雲もまた、
少しずつ薄れていった。
青空が戻る。
静寂。
いや。
静寂ではない。
善財は気づいた。
世界は、
最初からずっと鳴っていたのだ。
風も。
鳥も。
木々も。
人々も。
海も。
空も。
全部が。
ただ自分が、
聞こえていなかっただけなのだと。
善住比丘は、
静かに空を見上げていた。
先ほどまで荒れていた空には、
もう青空が戻っている。
白い雲が、
何事もなかったかのように流れていく。
善財はまだ、
言葉を失っていた。
胸の奥が、
妙に静かだった。
龍は恐ろしかった。
空が裂けた時は、
本気で死ぬかと思った。
なのに今は、
不思議と恐怖が残っていない。
代わりに残っているのは――
巨大な調和の感覚だった。
善財はぽつりと呟く。
「……倒さないんですね」
善住比丘は笑った。
「倒してどうする」
「いや……
だって暴れてましたよ」
「うむ」
善住比丘は頷く。
「だから、
流れを戻したのじゃ」
善財は眉をひそめた。
「戻す?」
「龍もまた、
空の一部じゃからの」
善財は黙り込む。
善住比丘は、
ゆっくり空中を歩き始めた。
善財も後を追う。
不思議と、
もう怖くなかった。
善住比丘は続ける。
「人は、
何かがおかしくなると、
すぐ“敵”を作りたがる」
「……」
「悪いものを消せば、
世界は平和になると思っておる」
善財は、
海雲比丘の言葉を思い出していた。
――全部、
繋がっている。
善住比丘は静かに言う。
「だがの」
風が吹く。
「世界は、
そんなに単純ではない」
空の遥か彼方で、
鳥の群れが旋回していた。
「怒りを消せば、
終わりではない」
「……」
「悲しみを消せば、
解決でもない」
善財は、
ただ黙って聞いていた。
「無理に切り分ければ、
流れは歪む」
善住比丘は、
空へ手を広げる。
「だから見るのじゃ」
「見る……」
「全体を」
その瞬間。
善財は、
少しだけ理解した気がした。
徳雲比丘は、
無数の世界を見ていた。
海雲比丘は、
世界の繋がりを感じていた。
そして善住比丘は――
境界そのものを、
消してしまう。
だから。
敵と味方。
上と下。
自分と世界。
その区別さえ、
少しずつ曖昧になっていくのだ。
善財は空を見上げた。
どこまでも広い。
境界など、
最初から存在しないかのように。
善住比丘は、
そんな善財を見て笑った。
「まあ、
最初は分からんでもよい」
「え?」
「どうせ、
旅を続ければ嫌でも分かってくる」
善財は苦笑した。
「皆、
同じこと言いますね」
「そうかの?」
「はい」
善財は肩をすくめる。
「“今は分からなくていい”って」
善住比丘は、
少しだけ嬉しそうに笑った。
「それに気づけるのは、
ちゃんと前へ進めておる証拠じゃ」
風が吹く。
天の音楽が、
再び遠くで鳴り始めていた。

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