【善財くんがゆく!】第九話 善財くん、空を歩く僧に出会う:第三の善知識・善住比丘 (4)

善住比丘は続ける。

「怒りも」

風が鳴る。

「悲しみも」

雲が揺れる。

「迷いも」

龍が空を巡る。

「本来は、
世界の流れのひとつに過ぎぬ」

善財は息を呑む。

その瞬間だった。

龍の動きが、
変わった。

巨大な身体が、
ゆっくりと空を旋回し始める。

先ほどまでの暴走ではない。

まるで。

音楽へ合わせるように。

善財は目を見開いた。

黒雲が裂ける。

その隙間から、
光が差し込んだ。

龍の鱗が、
金色に輝く。

空の音楽は、
さらに大きくなる。

天。

風。

雲。

龍。

光。

全部がひとつの巨大な流れとなって、
空を巡っていた。

善財は、
知らず涙を流していた。

理由は分からない。

ただ。

美しかった。

あまりにも。

善住比丘は、
そんな善財を見て静かに頷いた。

「見えたかの」

善財は、
しばらく答えられなかった。

やがて、
小さく呟く。

「……はい」

風が吹く。

空の音楽が、
ゆっくりと静まっていく。

龍は、
もう暴れていなかった。

巨大な身体をゆったりと揺らしながら、
雲の向こうへ消えていく。

黒雲もまた、
少しずつ薄れていった。

青空が戻る。

静寂。

いや。

静寂ではない。

善財は気づいた。

世界は、
最初からずっと鳴っていたのだ。

風も。

鳥も。

木々も。

人々も。

海も。

空も。

全部が。

ただ自分が、
聞こえていなかっただけなのだと。

善住比丘は、
静かに空を見上げていた。

先ほどまで荒れていた空には、
もう青空が戻っている。

白い雲が、
何事もなかったかのように流れていく。

善財はまだ、
言葉を失っていた。

胸の奥が、
妙に静かだった。

龍は恐ろしかった。

空が裂けた時は、
本気で死ぬかと思った。

なのに今は、
不思議と恐怖が残っていない。

代わりに残っているのは――

巨大な調和の感覚だった。

善財はぽつりと呟く。

「……倒さないんですね」

善住比丘は笑った。

「倒してどうする」

「いや……
だって暴れてましたよ」

「うむ」

善住比丘は頷く。

「だから、
流れを戻したのじゃ」

善財は眉をひそめた。

「戻す?」

「龍もまた、
空の一部じゃからの」

善財は黙り込む。

善住比丘は、
ゆっくり空中を歩き始めた。

善財も後を追う。

不思議と、
もう怖くなかった。

善住比丘は続ける。

「人は、
何かがおかしくなると、
すぐ“敵”を作りたがる」

「……」

「悪いものを消せば、
世界は平和になると思っておる」

善財は、
海雲比丘の言葉を思い出していた。

――全部、
繋がっている。

善住比丘は静かに言う。

「だがの」

風が吹く。

「世界は、
そんなに単純ではない」

空の遥か彼方で、
鳥の群れが旋回していた。

「怒りを消せば、
終わりではない」

「……」

「悲しみを消せば、
解決でもない」

善財は、
ただ黙って聞いていた。

「無理に切り分ければ、
流れは歪む」

善住比丘は、
空へ手を広げる。

「だから見るのじゃ」

「見る……」

「全体を」

その瞬間。

善財は、
少しだけ理解した気がした。

徳雲比丘は、
無数の世界を見ていた。

海雲比丘は、
世界の繋がりを感じていた。

そして善住比丘は――

境界そのものを、
消してしまう。

だから。

敵と味方。

上と下。

自分と世界。

その区別さえ、
少しずつ曖昧になっていくのだ。

善財は空を見上げた。

どこまでも広い。

境界など、
最初から存在しないかのように。

善住比丘は、
そんな善財を見て笑った。

「まあ、
最初は分からんでもよい」

「え?」

「どうせ、
旅を続ければ嫌でも分かってくる」

善財は苦笑した。

「皆、
同じこと言いますね」

「そうかの?」

「はい」

善財は肩をすくめる。

「“今は分からなくていい”って」

善住比丘は、
少しだけ嬉しそうに笑った。

「それに気づけるのは、
ちゃんと前へ進めておる証拠じゃ」
風が吹く。

天の音楽が、
再び遠くで鳴り始めていた。


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